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「花子とアン」にみる大正期のフィランソロピー

2014年07月30日

1. NHK朝ドラ「花子とアン」に登場する面倒見のよい石炭王と地主
 NHKの朝ドラ「花子とアン」は、翻訳者として、また児童文学者として活躍し、明治から昭和にかけて駆け抜けた村岡花子の生涯を描いたものだ。 
 「花子とアン」を観ていて、おやっと思ったことがある。故郷の地主の徳丸甚之助や九州の石炭王の加納伝助が妙に面倒見が良いのだ。地主の徳丸は、小作人の借金を肩代わりしたり、小作人の子供の出征や結婚式の宴を自宅で施してやっている。加納伝助も、従業員の面倒をよくみている様子が見て取れるし、後に、花子が苦境に陥った時に支援の手をさしのべている。このような面倒見の良い人を現代社会ではなかなか見ることができないし、むしろ不自然な感じさえする。
 だが、彼らの面倒見のよさは、徳丸や加納に限られた特別なものというよりも、大正期に芽生えた日本のフィランソロピー的な風潮を反映したものなのだ。

2. 大正期のフィランソロピー ~実業家による社会文化事業の始まり~
 大正期は、1912年~1926年と短いのだが、この時代に後世に残るような社会事業が何人もの実業家によって実施されている。

「ノリタケと社会教育事業」
 たとえば、陶磁器で有名な「ノリタケ」の創始者である森村市左衛門は東京の商家に生まれたが、父が残した膨大な借金の返済に追われ若いころを過ごした。その後、貿易に着手し、実業家として成功を収める。その過程で、アメリカのディナーウエアに負けない磁器を作ろうと名古屋の則武で試作を始める。それが近代日本のセラミック産業の幕開けであった。やがて、森村は、森村豊明会という非営利法人を創設し社会事業に着手する。特に、子女教育には熱心だったようで、日本女子大学の創設に貢献した。その後も、東京女子大、東京農業大学、日本医学専門学校、伝染病研究所を支援している。森村は「自己を犠牲としても、国家の将来のため、社会人類のために働くといふ覚悟は事業をなすの秘訣である」と明言している(川添、山岡『日本の企業家と社会文化事業』東洋経済p27)が、その言葉から、経営者としての社会的責任の重さを窺うことができる。

「大原孫三郎と大原研究所」
 大原孫三郎は、倉敷紡績を創設した大原四郎の次男として生まれたが、兄が早く亡くなったために家督を引き継いだ。東京に遊学し放蕩息子ぶりを発揮していたようだが、転機を迎えたのは、故郷の倉敷に戻り、岡山孤児院の基金管理者になった時だった。以来、孫三郎は社会事業を大きく展開させてゆく。興味深いのは、チャリティ(慈善)から、社会改良事業へと方向転換したことである。つまり、貧困や疾病という目前の問題に対処するだけではだめで、その原因から根絶しなければ社会問題は解決しないという考えのもとに、大原農業研究所(後の岡山大学農業生物研究所)、大原社会問題研究所(後の法政大学大原社会問題研究所)、倉敷労働科学研究所(後の日本労働科学研究所)を創設したのである。こうした考え方は、カーネギーやロックフェラーが財団を創設した時のそれと共通するものがあり、おそらくその影響を受けたものと思われる。

「サントリー 大阪初の社会事業」
 大阪で初の社会事業を手掛けたのは、鳥居信次郎氏である。鳥居氏は壽屋(現在のサントリー)の創始者であるが、彼は1921年に邦寿会を設立し、低所得者向けの無料診療と施薬を行う今宮診療所を開設した。その後も2件の診療院を創設し、生活困窮者の医療に貢献している。鳥居はそれまでも社会事業に多大な寄付をしてきたが、企業とは別の非営利法人を創設し、よりシステマティックに社会事業を行おうとした。その意味でも大阪で初めて、組織化された公益活動と言われている。
 その他、日本生命によって日本生命済生会が設立され、困窮者のための福祉活動が実施されたが、私的社会事業の効果と重要性をよく示していた。また、同時期において、天皇家や財閥による慈善寄付も盛んであったことも加えておきたい。

3. 大正期の背景 ~”富国強兵”から”社会”へ~
 こうした私的社会事業を輩出した大正期とはどのような時代なのだろうか。建築評論家の川添登氏によれば、富国強兵を掲げ、急速に近代化を進めた明治時代の後、俄かに工業化された日本の社会と国民をどのように統治してゆけばよいのか、内的・精神的な模索が始まった時代でもあるという。
 大正デモクラシーという言葉に象徴されるような、大正期は、文化、思想活動が華やかに繰り広げられたという印象もあるが、当時は日露戦争による財政負担や経済恐慌に見舞われ、国家財政は疲弊し、農村や都市部で焼き討ちが起こっていた。
 また、急速な近代化によって、伝統的な共同体が分断される中、国民にどう一体感を持たせ統一したらよいのかという重い課題が浮上していた。そこで、政府は「家族国家」観を中核的な観念を打ち出ちだしたのだが、そのことは当時の修身書に色濃く表れている。また、農村地域の地縁共同体を解体させ、政府が主導する青年団や産業組合などに再統合していった。その際、政府は、精神的な支柱として、二宮尊徳の後継者が創設した報徳会の思想を活用している。二宮尊徳の銅像が当時の小学校の校庭によくみられたのはそのためである。

 また、この時代に「社会事業」という言葉が官庁用語として定着している。大正6年に内務省地方局に社会事業を主幹する救護課が設置され、のちに社会課となり、3年後には社会局となっている。この時の政府は、初めて、社会という言葉を官僚組織の中で用いた。ただし、「社会」という言葉は用いているものの、貧乏な人々を救済するために「感化する」と述べていることから、およそ現代の民主的、人道的な思想とは異なる考え方のもとで社会事業が施行されていたものと思われる。だが、社会事業と銘打ったことで、貧困や疾病を個人の問題ではなく、社会の課題として認識したという点は評価されるところだ。

4. 企業の共同体と家族的思想
 政府は「家族国家」を国民を統一するための中核観念として打ち出したが、企業においても同種の考え方が広がっていた。経営者と従業員の関係は家族的な共同体として築かれ、それを維持するためには、和の精神や相互扶助の関係を構築する必要があった。そのため、従業員に対して、社内福祉や教育を施した経営者は少なくなかった。
 また、こうした和による共同体を維持するためには、経営者自身の精神性も問われることになる。先に挙げた経営者たちは、報徳思想、儒教、キリスト教、仏教などを熱心に読んでいたようだ。こうした中で、「私益よりも公益」、「利潤は公益や社会のため」という考え方を重んじる思想が経営者たちに支持されていたという。
 
 なるほど、こうしてみると、「花子とアン」の加納伝助がなぜ、面倒見がよかったのか、合点がゆくところがある。しかし、大正期小史において、より大事なのは、この時期に、日本人が初めて「社会」というものに着目し、それを事業や政策として具現化したという点である。その方法は、昨今の社会的企業、ソーシャルイノベーションに比べてもまったく遜色ない。否、昨今の企業のCSRやCSVに比して、はるかにダイナミックなものにみえるのだ。このダイナミックさの違いはどこからくるのだろうか。一般には、株主価値優先主義、サラリーマン社長など現代企業のガバナンスや仕組みに起因するものだと言われる。だが、それも表面的な理由に思えてならない。
 最大の違いは、社会や公益が別の誰かが担ってくれているという前提のもとで行う社会貢献事業と、自らが担わなければ社会を維持することはできないという強い使命感に裏打ちされた社会事業のそれではないだろうか。それは、企業だけでなく、私たち日本人に蔓延している社会に対するオーナーシップの希薄さのことだ。

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