池田浩士(京大名誉教授)による、戦前日本のボランティア政策とナチスをテーマにした講義を聴いた。
ここでいうボランティアとは、日本では勤労奉仕、ドイツでは労働奉仕のことをさすが、国民が自発的に社会貢献のために奉仕をするという意味で、池田氏はボランティアという言葉を用いている。以下はその講義メモである。
1.戦前にあった日本のボランティア元年
一般にボランティア元年とは、1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災に全国から多数のボランティアが集まった年をさす。それは1998年に制定されたNPO法制定の大きな動員力にもなった。
だが、池田氏は、戦前にボランティア元年があったと指摘する。それが、1923年9月1日に発生した関東大震災だ。被災地に東京帝国大学の学生が集まり支援活動を始めたが、実に14年超にわたって続いた。その契機も意外なものだ。当時、第一次世界大戦終戦直後で、日本は敗戦国ドイツの植民地の一部を勝利国として獲得することになった。帝大生たちは、夏休みを利用し、新たな植民地の見学に行ったが、その帰路、関東大震災の現場に遭遇する。彼らは、帰郷せずに救援活動に勤しんだ。そして、災害状況を把握するために調査を開始すると、地域によって被害の大きさが異なることに気づく。それは、貧富の差を反映したものであった。学生たちは、地域に住み込み、法律相談や子供たちの教育活動等を始めるようになる。そして、活動グループを「東京帝人セツルメント」と命名したが、支援者として東京帝大の教授たちも参加した。
2.ボランティア制度化の契機
池田氏は、ボランティア制度化の契機として2つの報告書を挙げる。ひとつは、1933年に提出された『満州産業建設学徒動員実施計画書』である。それは、1933年の夏休みに2000人の学徒を満州国に派遣することで、その目的は世界の再建とされた。この報告書の発起人になったのが、満州移民立案者となった橋本傳左衛門であるが、参加者には「東京帝人セツルメント」の支援者であった東京帝大の穂積重遠教授の名前もある。おそらく、穂積教授には、関東大震災での帝大生のボランティア活動と満州国への青年派遣は同種に映ったのだろう。
もうひとつは、1937年に農林省経済厚生部から出された報告書『農山漁村に於ける勤労奉仕』である。これは、14の農村における勤労奉仕の事例を挙げたもので、農村でのボランティア活動を推奨することを謳っている。農林省が勤労奉仕を推奨した背景には、世界恐慌と同時に訪れた農村恐慌問題があるが、この点については後述する。
3.ボランティア制度化の背景 ~政府の思惑~
池田氏は、ボランティア制度化の背景に、次のような政府の思惑があったと述べる。それは、対中国戦略戦争であり、農村恐慌対策である。
当時の時代背景をみれば、1929年には世界恐慌が始まり、日本経済にも大きな影響をもたらした。翌年には、養蚕不況によって長野、群馬の農家が打撃を受けた。図らずも同年は米の大凶作に見舞われ、大量の農民が路頭に迷うことになった。そして、1931年には満州事変が勃発し、翌年1932年には満州国が建設される。
日本政府は、行き場を失った農民のために、満州国に活路を見出そうとした。1932年10月には、第一次満州農業移民団(492名)が満州に派遣されている。
この時期には、様々な勤労奉仕活動にかかる法令が制定されている。1938年4月に国家総動員法が公布された。同年5月には、文部大臣・校長会議が開催され、学生生徒に勤労奉仕の観念を教える必要性が議論され、6月には文部省が「集団的勤労作業運動実施」に関する通達を行い、夏休みを利用した学生生徒による勤労奉仕活動が実施された。1939年には、国民徴用令が勅令され、国民を戦争に参加させることが可能になった。また、1941年には、全国の「隣組」が一斉に常会を開催することになった。同年11月には、国民勤労報告協力令が公布され、14~40歳の男子、14~25歳の未婚女子に年30日以内の勤労奉仕が義務化された。
この中で、私が特に興味をもったのは、1938年の文部省の動向だ。同年2月に、「東京帝人セツルメント」が解散しているが、実際には文部省の圧力によるものであったという。その2か月後の4月には国家総動員法が公布され、5月に文部大臣・校長会議が開催され、学生生徒の勤労奉仕が議論されていることに鑑みれば、政府方針とは異なるところで、自発的な奉仕活動を行う「東京帝人セツルメント」は邪魔であったのだろう。
4.ボランティア適用の広がりと変容
勤労奉仕の対象者や活動内容は、戦争が進むにつれ広がり、変容していった。最初に着目されたのは、学生生徒たちの勤労奉仕活動だ。彼らは、神社の掃除、町内のどぶさらい、農村での草取りなどに従事したが、やがて満州に広がり、満蒙開拓青年義勇団として派遣される者も出た。
また、農村恐慌に苦しむ農民たちも、志願者として満州に派遣されたが、武装移民、自由移民、分村移民というように類別され、軍隊を補助する目的で派遣された者もいた。同じく、1938年に「大陸の花嫁」が公募された。これは、満蒙開拓団として派遣された男子たちの花嫁となる者を募集したものである。当時、日本政府は、満州国人口は20年後には5000万人になると試算していたが、その1割は日本人で占めるべきであるという方針を打ち出した。「大陸の花嫁」は、いわば人口対策から発案されたのである。そして、これも自発的な社会貢献活動の一種と位置づけられ、これに国民が志願、応募した。
また、著名な作家たちが志願した「ペン部隊」が、1938年に中国に派遣されている。
5.ナチスのボランティア政策を紹介した人々
戦前、戦中の日本政府の勤労奉仕政策のモデルとして、折につけ紹介されたのが、ナチスのボランティア政策であった。
池田氏は、日本政府の勤労奉仕にかかわる年表とつきあわせながら、次の書籍を紹介した。『平和の武装 独逸労働奉仕制度』(1937年 下松桂馬)、『ナチスの青年運動 ~ヒットラー青少年代と労働奉仕団』(1938年 近藤春夫)、『ナチス労務動員体制研究』(1941年 森戸辰男)等である。ちなみに森戸氏は、戦後内閣の文部大臣を務めている。また、こうした学者のほかに、革新官僚と呼ばれる役人も労働奉仕に関する研究書や報告書を発刊している。
ドイツの労働奉仕は、ワイマル共和国時代に、失業対策として始められ、やがてナチス政府によって国民意識の醸成や連帯感・絆を育む手段として、また徴兵制度を補完するものとして労働奉仕が義務化されていった。
日本の勤労奉仕制度は、当初より中国侵略戦争と農村恐慌対策として誕生したことから、その契機はドイツとは異なる。しかし、国民意識の醸成、国家従属の手段として奉仕活動を用いたという点では、ナチスから学んだ点が大きいのではないか。
6.自発性と義務化の境界
池田氏の講義は、その切り口が斬新なだけでなく、史実の詳細までエビデンスに基づいて、物語として語られるので、あっという間に2時間が過ぎてしまう。そして、講義が終わると、様々な疑問が噴出してくるのだ。
池田氏に尋ねてみた。「この歴史における、ボランタリー(自発的)な活動と義務化・強制化された活動の境界線は、一体どこにあるのか?」
池田氏の答はシンプルだった。「明確な境界線はないと思う。」
さらに尋ねてみた。「ここに参加した人々は、皆、公益的な活動をしたいと思っていたのではないか。例えば、ナチス時代のゲシュタポへの密告も住民は公益通報だと思っていたのではないか?」
池田氏は「ファシズムの成立にとって住民の密告は必要不可欠なものだった。だが、住民は公益だと思って自発的に密告していた。だから、怖いのですよ」と答えた。
つまり、自発性と強制の境界は曖昧であり、公益という概念も政治・社会的な文脈によって反転してしまうということか。ナチス・ボランティア政策や戦前・戦中日本の勤労奉仕政策は、私たちが正義と信じていることにも危うさを孕んでいること教えてくれているように思う。
講義の最後に、ヒットラー・ユーゲント(ヒットラー青年部)の来日を記念して録音された歌が披露された。ナチスを称え、ヒトラーを称え、勤労奉仕に学べという内容だ。歌手は藤原義江、作詞は北原白秋だった。