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浅田真央が突いた評価論の本質

2013年12月10日

1. トリプルアクセル判定と浅田真央のコメント
 私は浅田真央の大ファンである。彼女の競技が放映されたら電話には絶対に出ない。フィギュア・スケート・シーズンが始まると1日に1回は彼女の演技の動画を見る。おかげで知らぬうちにジャッジの採点シートもある程度読めるようになっていた。

 先週、福岡で開催されたグランプリ・ファイナルも当然のことながら、外界からシャットアウトされた状態でテレビを直視していた。(本当のことをいうと、ネットのほうが先に演技結果が発表されるので、こちらを片手に見ながらテレビをみていた。)
初日に行われたショート・プログラムの演技。浅田真央は、見事にトリプルアクセルを飛び切り、誰がみてもパーフェクトな演技を披露した。日本のアナウンサーのみならず、イギリスやイタリアの放送でも誰もが完璧にトリプルアクセルを飛んだと絶賛していた。しかし、ジャッジの採点結果をみると、アンダー・ローテーション、つまりトリプルアクセルを回りきれなかったと判断され、減点されていたのだ。採点結果をみた浅田真央は一瞬「またか」というような表情を見せたが、落ち着いた様子ですぐに笑顔に戻っていた。

 その後のインタビューで、彼女は、自分の中ではきっちりと回りきっていたと思うので、ジャッジがアンダー・ローテーションと判断したことについてあまり気にしていないという趣旨のことを述べていた。この言葉、評価の仕事に従事している者にとっては、とてもドキッとする発言である。スポーツにおいてジャッジというのは、ルールを体現する存在である。政策評価や大学評価でいえば、基準に基づき厳密に評価を行うことが求められる評価者と同じ存在である。そして、ルールとは、少なくとも民主的な社会においては、当事者や専門家あるいは関係者の間で共通の規範として合意の上で成立するものである。そして、採点結果や評価結果というのはこのルールに基づいて判断された結果であることは言うまでもない。

 ところが、今年世界で最も強いといわれる浅田真央は、自分の中ではきっちりできたので、ジャッジの判定結果はあまり気にしないと述べたのである。ちなみに男子で1位になった羽生結弦もジャッジの判定結果に「点数が出過ぎ」と語っている。
 国際スケート連盟や審判団はこの言葉を重く受け止めるべきだろう。なぜならば、ジャッジの判定やルールに対する選手の信頼が低下すれば、ある種のモラルハザードを呼び込んでしまう可能性があるからだ。

2. スポーツは評価方法の宝庫
 スポーツ競技というのは様々な評価方法の宝庫である。もっともシンプルな評価方法を有しているのは、距離や時間を競い1位、2位を決める水泳や陸上のような競技だろう。野球も点数を争う競技だ。だが、選手の業績についてはゲーム中の行動が採点表に基づき細かくチェックされている。アメフトのルールは未だに理解できないが、ひとつだけ深くうなずいたことがある。何でちょくちょく止まるのかといえば、連続した動きでは評価ができないためだとアメフトのコーチから聞いたことがある。言い換えれば、評価をするために選手の運動を細分化しているのである。ちなみに、細分化の考え方をもとにアメリカの大学で開発されたのがルーブリックという手法だ。
 美を競う競技の採点はより難易度の高い評価といえよう。ひとつひとつの技の完成度をルールに基づき採点して積み上げてゆく。だが、興味深いのは技という要素を積み上げても全体の印象とマッチしないことがあるからだ。評価の世界で「個の評価を積み上げても全体の評価になるとは限らない」と言われることがあるが、フィギュアスケートや体操などはその問題をよく体現しているようにみえる。

 しかし、だからこそ、ルールが大切になる。絶対の基準がないからこそ、関係者の合意の上で作られるルールが必要だ。そして、疑問や意義が多発するようであればルールは変えなければならない。そうでなければ競技者は、競いあい、切磋琢磨するための軸を失ってしまう。先に述べたモラルハザードとはそういう意味だ。
 浅田真央は何の含意もなく、自身の演技に集中するという意味で述べた言葉だろう。しかし、彼女のあの言葉にドキッとしたのは、私の商売(評価)ゆえの過剰反応だろうか。

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