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なぜ気安く受容するのか ~都議セクハラ発言~

2014年06月27日

1. なぜか腑に落ちない「都議セクハラ発言の政治と報道の反応」
 都議セクハラ発言が紙面やテレビをにぎわしている。先週は議会での野次の様子が放送され、犯人は誰なのかと、議会上の図解を交え報道した。
 今週は野次を飛ばした議員が深々と頭を下げる場面が放送された。すると、民法各社、NHKは「野次を飛ばした議員は他にもいるが見つかっていない」と報道した。
 きっと私がうがった見方をしているのだと思うのだが、画面に映った「深々と頭を下げている」構図はパフォーマンスに見えてしまったからだ。報道も犯人捜しに終始してしまうのなら、随分、薄っぺらい印象が否めなかったのだ(その後、報道の内容は犯人捜しから、変化している)。
 確かに、セクハラ発言は許しがたい。しかし、ここまでの政治の反応、報道の反応が何か腑に落ちず、モヤモヤとしたものが晴れなかったのだ。

 そのような折、言論NPOの工藤泰志代表に動画インタビューする機会があった。言論NPOは政治の評価を10年以上実施し、メディアの評価にも挑戦していたことから、是非、意見を聞いてみたかったのだ。

2. インタビューのポイント
10分ほどのインタビューだが、その論点は決して少なくなく、事の本質を突いたものであったと思う。以下のような内容だ。

① 問題の本質は、日本の政治家の人権感覚の欠如にある。それは、今回のセクハラ発言のみならず、内外の言動でも三権される内容だ。
② 人権問題は、国際社会では遥かにシリアスに捉えらている問題で、日本人との間に大きなずれがある。
③ 差別発言、セクハラ、パワハラを戒め罰する、規律システムが政治に存在しない。
④ メディアが、こうした政治の問題を一般にオープンにしたことで、世論を動かし、政治も動かざるを得ない状況を作った点は高く評価。
⑤ それは、政治に対する有権者というカウンターパワーが機能する可能性があることを示す出来事であり、民主主義を機能、強化する好機と捉えられないか。
⑥ メディアは熱しやすく、冷めやすいが、こうした、こうした大きな意味を理解して、報道をすべき。
⑦ 有権者である私たちは、議会を傍聴、政治家の言動を厳しく聴くなど、これを契機に行動をとることが重要。

人権問題に関する議論は複数聴かれたが、政治と有権者間のカウンターバランスの問題として、さらには民主主義の問題として捉えた意見は、おそらく他にはないだろう。全てに賛成ではないが、共感する部分も多い。何よりも、抱いていたモヤモヤのかなりの部分は解消された。

3. なぜ、気安く受け入れてしまうのだろう
 インタビューの後日、若い人々とセクハラ発言問題について議論する機会があった。大方の意見は、「セクハラへの過剰反応」「野次は日本の政治の文化では」「メディアの過剰報道」など、保守的なものの方が目立った。無論、都議のセクハラ発言は許されるものではないということを前提にした意見ではある。
 だが、現状を容認するような発言に、内心とても落胆し、表情に出さないように努めるのに苦心した。どうしたら、自の生活や利害と直接関係のない社会の課題についても、もっと前向きな発想を身に着けてくれるものか。この問題はとてつもなく重く、大きい。

 有権者が政治へのカウンターパワーとして機能しうるのではという希望的観測と現実のギャップはかなり大きい。日本人の価値観、規律に関する認識へのチャレンジそのものだからだ。社会の中の大きな脱力感のようなものに抗っているのかもしれない。しかし、だからこそこうした発言に耳を傾け、大事にしたいと思った。

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