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アーレントとドラッカー「悪の凡庸さ」と「無関心の罪」

2014年08月09日

1. 映画「ハンナ・アーレント」
 映画「ハンナ・アーレント」を観た。以前から観たかったものだ。一般に、アーレントの思想の全容を一本の映画で表現することは不可能だと思う。映画には筋の通ったストーリー展開が求められるからだ。そうした限界がある中で、ハンナ・アーレントの思想のある側面を明確に伝えている点で秀逸だった。

 ハンナ・アーレントは歴史的な政治哲学者である。彼女はドイツ生まれのユダヤ人で、ナチスの抑圧に合い、フランスに逃げるが、そこで抑留された経験を持つ。その後、米国に逃げ、1945年に終戦を迎えた。そして、1951年に『全体主義の起源』という大著を刊行する。それは、ナチスのような国家的犯罪がなぜ生まれたのかを洞察し、”絶対の悪” を説いたものだった。

 この映画は、『全体主義の起源』を刊行後、哲学者として名声を収めた時代からのハンナ・アーレントを描いている。彼女は、構造主義人類学者 クロード・レヴィ=ストロースなどを輩出した、ニューヨークにあるNew School for Social Researchで人気教授として教鞭をとっていた。彼女にとって幸せな時だったのだろう、自身が、この時代が「パラダイス」だと述べている。
 そして、1960年、ナチス官僚のアドルフ・アイヒマンが逮捕されたニュースが流れる。ハンナは裁判を傍聴することを切望し、イスラエルに向かう。

2. ”悪の凡庸さ”の発見
 裁判を傍聴すると、ハンナは、アイヒマンが想定外の人物であったことに驚く。アイヒマンは、「命令に従ったまで、ルールに従ったまでだ」と述べ、そこにはユダヤ人を殺そうという意思はなかった、自ら手を下していないと主張し続けていた。ハンナの目に映ったアイヒマンは、命令に従順なごく普通の官僚であり、彼の凡庸さに驚いたのだ。
 そして、ハンナは悪には2つの種類のそれがあるのではないかと考え始める。ひとつは、”絶対的な悪”であり、残虐無慈悲で、怪物的な悪のことだ。そして、もうひとつが、”凡庸な悪”である。それは、アイヒマンの裁判傍聴から得られた洞察の結果であった。
 ハンナにとって、アイヒマンの言動は、およそ”絶対的な悪”に由来する行為とは思えなかったのである。なぜ、平凡で普通の人にみえるアイヒマンが、あのような残虐な行為に加担していったのか。なぜ、アイヒマンは自らの行為についてあれほどひょうひょうと答えるのか。
 ハンナは、その理由を「思考の欠如」と結論づけた。目下の職務に忠実であることで、その行為の善悪や真偽について考えが及ばなくなることだ。そして、”凡庸の悪”は、誰もが陥る可能性のある悪であることも述べた。

 彼女はこの書を記したことで、ナチスの擁護者、ユダヤ人の裏切り者と揶揄され、多くの友人を失い、大学に居辛くなってゆく。それでも彼女は、主張を曲げず、その後も、”悪の凡庸”を追求し続けた。
 
3. ドラッカーの”無関心の罪” 
 ドラッカーは、その著書の中で、ハンナ・アーレントについて記述することはあまりなかった。しかし、明らかに彼女にインスピレーションを得たと思われるのが、ドラッカーが青年時代に記した『経済人の終わり』(1937年)である。これは、氏の初の本格的な著書で、ナチス台頭の理由を経済、政治、そして市民生活の視点から批判的に分析したものである。

 私は、この著書の中で、最も重要なキイワードは「無関心の罪」であると思っている。ドラッカーは、なぜドイツ市民がナチスに傾倒していったのかその理由を探っているが、大きく2つの理由を挙げている。ひとつは、安定にすがることで、生活の安定さえ確保できれば、経済、言論、思想の自由を犠牲にしても良いと考える人々が増えたことだ。その背景には、財政破綻や高失業率、それに伴う社会的排除の問題があるとしている。
 そしてもうひとつの理由が「無関心の罪」である。ナチスのユダヤ人虐殺や政策の矛盾に気づいていた知識人は少なくなかったが、自らに火の粉がかかることを恐れて、見て見ぬふりをした。ドラッカーはこの行為を「無関心の罪」と呼んだのである。そして、20世紀の最大の罪は、残虐な行為や権力欲に目がくらんだ行為などの伝統的な罪ではなく、「無関心の罪」であると明言している。

4. 「凡庸の悪」と「無関心の罪」と思考の欠如
 「無関心の罪」は、2つの点で「凡庸な悪」に似ている。ひとつは、誰もが犯しうるという罪であるという点だ。そして、もううひとつは「思考の欠如」である。「無関心の罪」で描かれている知識人は、”見て見ぬふり” をする人として描かれていることから、最初から思考が欠如しているというよりも、確信犯的な思考欠如を意味している。その意味で、ナチスのルールに従順な官僚に染まり思考が欠如したアイヒマンとは異なる点もある。だが、思考が欠如しているという意味で共通しているるのだ。

 ”悪の凡庸”も”無関心の罪”も、決して、第二次世界大戦時代に特有のものではない。それは、時代を超えた普遍的なメッセージであり、私たちが深く受け止めねばならない警鐘である。では、どうすればよいのか。
 ハンナ・アーレントは「思考」することが”悪の凡庸”という落とし穴から人間を救う方法であると述べている。そして、ピーター・ドラッカーは「市民性創造」つまり、コミュニティやNPOなどを通じて社会課題の解決に参加することによって利他性や社会性を育むことが方策であると述べている。
 ただ、それでも、「思考」とは何? 「市民性創造」とは何? という疑問は多々残る。それは私たちに課された重い宿題なのだと思う。

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