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デモをめぐる政府と市民 ~日米の違い~

2013年02月13日

元日米通商代表で、現在ワシントンの民主党系シンクタンクのシニア・フェローをつとめるグレン・フクシマ氏を講師に招いた勉強会(言論NPO主催)に参加した。「米国は日本をどう見ているのか」という、お馴染みのテーマだ。質疑応答の中で、「米国の政治家は日本の有権者と話がしたいと思っている」という意見が質問者からも、フクシマ氏からも出された。こういう意見は、日本の政治家からは出てこないだろうと思った。政治と市民の距離の差異を顕著に表す一言だと思う。
 そこで、デモに対するアメリカの政府、ジャーナリズムの反応について尋ねてみた。日本では反原発デモが毎週、官邸前で行われ、その数も数十万にのぼっている。しかし、政治は選挙の時には脱原発をこぞって謳ったが、いざ、政権をとってみれば、原発擁護の動きをみせている。政府は、デモに対して動じない姿勢を維持し、違う方向にかじ取りを始めているということだ。メディアも当初は報道していたが、最近はそうした記事も見られない。
 「では、ホワイトハウス前で、このようなデモが起こったら、政治とメディアはどのように反応したでしょうか?」と質問してみた。フクシマ氏は、「難しい質問です。ホワイトハウスは動じる姿は見せないでしょう。しかしアメリカのメディアは多様なので、もう少し報道しただろうとは思います(最近はそのメディアの質の低下もありますが。)」というものだった。
 そうであれば、日米政府の市民のデモに対する反応には大差ないことになる。しかし、やはり違いがあるように思える。日本政府がデモに反応しないのは、政府として毅然な態度をとることというという理由のほかに、日本のデモ小史にまつわるネガティブな印象にも起因していると思われる。
 小熊英二氏によれば、戦後日本の社会運動には3つの特徴がある。第1に強烈な絶対平和志向、第2に少数精鋭型のマルクス主義の影響が強かったこと、第3に倫理主義が強いことである。倫理主義とは、自らをエリートであると認識し、だから貧しい労働者のために私生活を捨てて奉仕しなければならないという考え方である。こうした特徴が相まって、社会運動は、安保やベトナム戦争反対、公害問題などで、一時盛り上がりをみせても、人々が離れてゆき、敬遠されていった。そして、残った少数の者が会員や勢力を争って過激派となり、ますます世間から敬遠されるようになっていった。
 昨今の世論調査でも日本人のデモに対する抵抗感はまだ根強いものがあるが、その背景には戦後日本の社会運動の特徴に起因するものだ。
ちなみに、こうした特徴は、途上国にみられる傾向で、米国や欧州のような先進国ではみられない特徴であるという。自民党政権は、過去の経験に基づき、今回のデモも「職業運動家の活動だ。以前そうであったように、やがて人々は離れてゆき、沈静化するだろう」と判断しているのではないだろうか。

 しかし、2011年の反原発デモは、倫理主義やマルクス主義の伝統を引き継いだ運動とは異なっているようにみえる。むろん、旧来からの運動家も参加しているようだが、明確な首謀者が存在せず、お祭的な色彩が強く、参加・退出の自由を重んじるスタイルのデモには、これまでデモは縁遠いと感じていた人も少なからず参加しているようだ。その理由にはいくつもあるだろうが、原発問題は身近な問題であるという当事者意識が芽生えたこと、原発問題への対応のずさんさに政府だけには任せておけないという思いをもった人々が行動したということだ。

 政治は、こうした市民の変化を無視するのか、それとも何か反応するのだろうか。少なくとも衆議院選挙には影響がなかったと判断しているに違いない。いかんせん、最低の投票率を記録し、有権者は自ら権利を放棄してしまったのだから。しかし、こうした状況が続けば、政治と市民の距離はますます乖離してゆく。行き着くところは、議会制民主主義体制の脆弱化なのではないだろうか。

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