ブログ

ドラッカー・マネジメント論の真の理由 ~前篇~

2014年03月03日

日刊工業新聞平成26年3月3日16面1. ドラッカー論の誤解
ドラッカーは近代マネジメント論の父として著名であるが、昨今は過去の人として語られることが多かった。だが、2008年のリーマン・ショック以降、米国では再び読者が増え、日本では「もしドラ」ブームの記憶が新しい。
 但し、氏に関する説明に誤解があることが気になっていた。例えば、氏がマネジメントに関心を抱いたのは、米国GM社に調査を依頼されたからだと説明されることがあるが、それは真の理由ではない。氏はNPOの重要性を力説していたが、エンロン事件で企業に失望したからでも、年老いて慈善心が強まったからではない。
 こうした誤解が生じるのは渡米前のドラッカーの思想をネグっているからだ。その思想は、青年ドラッカーが渡米以前より構想し、戦時中に出版した2冊の著書に描かれている。ひとつは、ナチスの批判的分析を記した『経済人の終わり』であり、もうひとつは、第二次大戦が終結することを前提に戦後社会を描いた『産業人の未来』である。

2. 青年ドラッカーのナチス批判
 ドラッカーは1909年にオーストリアのユダヤ系家庭に生まれたが、第二次大戦中の1937年に渡米した。氏は官僚の父と医学を学んだ母を持つ知的な家庭に生まれたが、大学進学を嫌い、社会で実務を学ぶことを決めドイツに移った。その後、仕事の傍ら独学で学び、21歳で法学博士号を取得し、1933年に大学の非常勤講師の職を得た。だが、同年、ユダヤ人であることを理由にナチスの命によって失職した。これを機に自身の最初の本格的著でナチスの批判的分析に関する著を記し始めた。

氏はドイツ人がナチスに傾倒した理由を分析するが、恐怖政治のために国民が脅かされなどの諸説は誤りであると指摘する。代わりに、ドイツの経済状況と失業に苦しむ人々の心理に着目する。当時、ドイツは第1次世界大戦と敗戦による多額の賠償金によって財政破綻寸前だった。1929年には世界大恐慌に見舞われ、ドイツはハイパーインフレと高失業率に苦しんだ。おりしもこの時期にベビーブーマー世代が就労年齢に達し、職を得られない若者が溢れ、失業率は30%を超えた。
ドラッカーは、失職は経済的な支柱だけではなく、社会とのつながりを失うことを意味し、そのつながりを失った人々には社会は半分しか見えず、半分しか見えない社会は恐怖でしかないと指摘する。そして、人々は生活の安定のためには、言論や経済の自由を犠牲にしてもよいと考えるようになっていった。事実、ナチス政府は、一時期、完全雇用を実現し、中低所得層に娯楽プログラムを提供した。

3. 「与えられた民主主義」と「獲得した民主主義」
しかしながら全ての人々がナチスの政策に納得していたわけではなかった。知識層にはナチスの政策が矛盾だらけであることに気づき、残虐な反ユダヤ政策に反発を覚える人々もいた。だが自らに火の粉がかかることを避け沈黙していたのだとドラッカーは指摘する。氏はそれを「無関心の罪」と呼び、20世紀最大の罪と批判した。生活の不安にかられてナチスに傾倒した人々よりも、見て見ぬふりをした人の罪の方が余程重いというのだ。
もうひとつドラッカーが注目したことがある。ナチス政権は議会制民主主義の手続きにのっとり誕生したという点だ。当時、ドイツでは短命政権が続き選挙を繰り返していた。こうした中、人々は「選ぶ政党がない」と選挙権を放棄し最低投票率を記録した。その結果、議会は少数政党に分裂し合意形成が困難になり機能しなくなっていった。
ドラッカーは、ナチス政権の台頭について「結局は国民が選んだのだ」と結論づけている。そして、ファシズムに陥る可能性はどの国にも潜んでいるが、それを踏みとどまらせた唯一の条件は「獲得した民主主義」と「与えられた民主主義」の違いだと述べている。例えば、フランス革命のように市民が自ら闘い自由と平等を勝ち取った記憶のある国と、敗戦でドイツ皇帝が逃亡し、俄かに創憲し民主主義国家になった国の違いだ。それは、革命の記憶がなければ同じ過ちを犯す可能性があることではないのか。
ではファシズムに陥らないためはどうすべきなのか。ドラッカーは次の著書を記し始めたのだった。

日刊工業新聞 卓見異見3/1 投稿より。

ページTOPへ▲