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ナチスのボランティア促進策

2015年10月05日

 今年は戦後70年のせいだろうか。NHKの「映像の世紀」刷新版など、第1次世界大戦から第2次世界大戦に関連した著書や映像についつい目がゆく。そして、それらを見るたびに、自分の勉強不足を恥じることになる。この年になって、近代史を学び直しているところだ。
 そのような中、ナチスに関する斬新な著書に出会った。池田浩士著『ヴァイマル憲法とヒトラー』岩波現代全書である。それは、ナチスが進めたボランティア策を描写したものだ。読み進めるうちに、複雑な気持ちが湧き上がってきた。ボランティアやNPOなど市民社会の研究に従事してきた者としては、少なからず戸惑うことがあったからだ。そのような時、インターネットで、池田氏の講義があることを知った。シビルという立川の市民団体が開催する市民講座であった。

1. ナチスのボランティア政策とは ~池田氏の講義から~
 池田氏の講義は、ドイツ近代史におけるボランティアの歴史と「労働」概念の説明から始まり、次第にナチスのボランティア策の核心部分へと進んだ。

(1)19世紀のドイツボランティア活動
 ドイツ近代史においてボランティアが登場したのは、19世紀末の工業化が進んだ時代である。英国の産業革命がドイツに入り、農村から都会へと人口流出する中で、自然回帰運動がおこった。そのひとつとして誕生したのが青年層を中心としたボランティア活動で、ワンダーフォーゲル(1986年)やボーイスカウト・ドイツ支部(1911年)の結成はその代表例である。

 ところで、当時、労働には大きく2つの意味があった。ひとつは肉体労働、もうひとつは知的労働である。この時代の労働は肉体労働が主たるもので、知的労働に従事する者は一部の上流階級、知識層に属する者であった。つまり、労働の内容が身分格差と連動していたのである。そして、ボランティアによる労働奉仕とは、肉体労働をさすものだった。

(2)失業対策としてのボランティア(労働奉仕活動)~ヴァイマル政府~
  第1次大戦後、不況と敗戦で失業者があふれ、退役軍人が行き場を失った頃、ヴァイマル政府は祖国救援奉仕法(1916年)を施行した。これは、失業者が労働奉仕に従事することでチップ程度の対価を受け取るというものであった。その後、世界大恐慌が起こり、失業問題が深刻化する中で、政府は新たに「自発的労働奉仕」を制定し、失業者以外も参加できるようにした。
 こうした奉仕制度を敷いた背景には、失業問題とヴァイマル憲法がある。同憲法には、全ての人々が失業時に手当てが施されることが明記されていたが、大量の失業者を抱える政府は失業手当てに国家予算の5割以上を投じなければならなくなっていたのだ。「自発的労働奉仕」は、失業者に僅かでも手当を給付するための苦肉の策であったといえる。

 また、同時期にプロイセン地方を中心に、アルタム同盟という農村支援を目的とした青年を中心としたボランティア活動が展開されていた。参加者は自由意思によるものであるが、ここでのボランティアは政策的な要素と密接な関係があったようにみえる。すなわち、プロイセンはドイツにとって重要な食糧供給地域であり、同時に、ポーランド、ソ連に近接する地域でもあった。その意味でプロイセンでのボランティアは食糧自給と国境の防衛に寄与する存在でもあったのだ。

(3)ナチ党は政権を掌握する前からボランティア策に熱心だった
 一方、ナチ党は、1933年に政権を掌握する以前より、ボランティア活動に熱心だった。失業対策として講じられたヴァイマル政府のボランティア政策には批判的で、独自のボランティア構想を練っていた。そして、ヴァイマル政府が、自発的労働奉仕制度を制定し、失業者以外の参加が認められるようになると、ナチ党は積極的にボランティア参加し、最大の参加団体になっていった。しかし、その活動内容はヴァイマル政府とは異なる独自路線で、1931年には、ナチ党独自のボランティア指導者講習会を開始する。翌年には、ボランティアの宿泊施設として労働奉宿営舎の建設・運営を始め、全国に展開していった。

 1933年、ナチは政権を掌握するが、その後2年半は、ヴァイマル政府の「自発的労働奉仕」制度をそのまま継続し、この間、着々とボランティア人口を増やしていった。そして、1935年に「帝国労働奉仕法」を制定する。いわば、兵役とセットで、同年に兵役が義務化されたが、兵役に行くまでの満19歳までに、6か月間の労働奉仕を義務付けるものであった。また、翌年には女子も労働奉仕に参加できることなり、後には義務化された。

(4)ナチ政府の狙い
 奉仕活動の内容をみると、男子は、農業用地拡大のための農業用水るの建設・改修、湿地の土地改良工事、海岸の堤防構築、農業用水路の建設、そしてアウトバーン(帝国自動車専用道)の建設、オリンピック・スタジアムの建設に従事した。また、仏軍の侵入を防ぐための西武防御壁の建設にも従事した。女子は、農家の主婦の手伝いが主なもので、家事や子守、家畜の世話などの仕事に従事した。
 また、ヒトラーは募金活動にも熱心だった。10月1日から3月31日の間、失業者のための募金活動期間として、学校や職場で募金活動を行った。また、「一鍋日曜日」といって、1か月に1日、メインディッシュを辞めて雑炊を食べる日を定めたが、家庭だけでなく、レストランも同じことが求められた。この活動によって節約された食費は寄付に回すよう勧められた。集められた募金額は大きなものであったが、その金はストレートに失業者対策に投じられたらしい。ただし、社会保障費がこれによって節減されることになるから、間接的には防衛費に投じる国費の確保につながったのではないかと、池田氏は述べている。

 人々は奉仕活動をいやいやながら行っていたかといえば、そうではないようだ。池田氏によれば、他者や社会のためになることに喜びを感じていた人々が多かったという。当時の写真をみると、いずれも笑顔の少年、少女たちばかりだ。ナチスのプロガンダを否めないだろうが、自由を奪われ、苦痛を感じている人々の表情には見えなかった。
 では、何がナチ政府の狙いだったのだろうか。池田氏は3つ挙げる。第1に、差別感を解消することだ。前述のように、労働には肉体的な労働と知的労働の2つがあり、それが身分的な差別と直結していた。ナチスは労働奉仕を万人に課すことによって、平等感を醸成しようとした。例えば、ナチスは、1933年に大学生の労働奉仕を義務化している。これは知的エリートに肉体労働を課せることになり、労働者層など多くの国民から共感を得やすかった。
 第2に、共同体精神の醸成であり、他者のために奉仕することで、民族共同体への帰属意識を高めようとした。
 第3は、ナチスの隠された目的で、ナチスの国民社会主義を教育することである。帝国労働奉仕制度の下、人々は労働奉宿営舎に宿泊しながら奉仕活動を行ったが、その日課には、政治や歴史の講義も組み込まれていた。ここで、ナチ政府流の歴史や政治が教えられたのである。当時の教育制度に鑑みれば、ここで、初めて政治や歴史を学んだ人々は少なくなく、その教育効果は大きかったはずだ。
 
2. 現代政府のボランティア政策とナチスのそれは真に異なるのか
 この講義を聴いて、大きな疑問が浮かんできた。現代の先進国でもボランティアやNPO政策が進められている。例えば、英国政府の「Big Society」、日本の民主党政権時の「新しい公共」である。これらの政策で掲げられているスローガンは概ね共通したもので、絆、連帯、共同、公共心である。
 そして、ナチが、政権掌握前に熱心に進めていたボランティア促進策のスローガンも同じだ。無論、途中から義務化され、ナチス流の思想教育をするような異質なものに転じてしまったが、ナチ党が当初掲げたボランティア策は、人々の自発性と社会性を求める心に訴えるものだった。そのように考えると次のような疑問が湧いてくる。何が自発性の象徴であるボランティア策を人々の自由意思をからめとる策へと転じさせてしまったのか。そして、現代のボランティア策は、ナチスのそれと真に異質なものと言い切ることができるのだろうか。ナチが人類につきつけた問題は、ボランティアやNPOにとっても無縁ではないのだ。
 

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