ブログ

下村大臣が掲げた9月入学大学生支援策にみる大学問題「産業界とのギャップ」

2013年05月04日

1. 下村文科大臣が掲げたギャップターム留学支援
 下村博文文部科学相が、1日、ワシントン市内で記者会見し、秋入学移行に伴い生じる高校卒業から約半年間の「ギャップターム」を利用して海外留学する学生全員に無償で奨学金を給付する考えを示したという。現在、東京大学などが検討している秋入学制度導入に伴い、高校卒業時の3月から大学入学の9月までの半年間を使って、海外において、大学やボランティア活動に参加する学生全員に返済義務のない奨学金を給付するというものだ。

こうした方針が打ち出された背景には、日本人留学者数の減少や若者の内向き志向に対する懸念がある。しかし、それだけに留まらず、大学の人材育成の在り方に対する本質的な問題が横たわっていると考える。

2. 大学と産業界のギャップ
 大学が、産業界が求める人材を輩出できていないという問題は、1950年代より指摘されてきたが、21世紀に入り、より深刻になっている。例えば、経済団体の提言数は1950年代から60年間に約250件に昇るが、実にその6割は21世紀に入ってから提示されたものである。

では、なぜ、大学が輩出する人材と産業界が求める人材像の間にギャップが生じているのか。その理由はいくつも指摘されているが、ここでは、大きく、教育側と産業界側に分けてみたい。
教育側の問題としては、何よりも、大学生の学力が相対的に低下していることが挙げられる。学力低下の原因として、よく「ゆとり教育」が挙げられることがある。しかし、ここではその主たる要因として「大学の大衆化」と少子化を挙げたい。昭和35年の大学進学率は4年制大学、短期大学を併せても10%程度であった。しかし、平成24年には、4年制大学が51.0%、短期大学進学率が5.7%となっている。大学進学率10%の時代において、大学に進学する者は、いわゆるエリートと呼ばれる人々であった。しかし、進学率が50%を超えれば、進学者の学力や属性は多様化してゆく。10%時代と比較すれば、相対的に学力が低下することは免れない。
また、少子化の影響で、大学は供給過剰の状態にあり、全入時代に突入している。そうなれば、さらに学力が低下する可能性は高くなる。ある大学のシラバスに、第1回講義:オリエンテーション、第2回講義:アルファベットの読み方、が記されていたというエピソードがあるが、ジョークではなく、真剣に悩む大学は少なくない。
では、産業界側はどのような問題を抱えているのか。前述のように、経済団体は1950年代から大学教育について提言を出しているが、その内容は時代の変遷とともに変化している。特に、提言数が急増した2000年代をみると、グローバル化や知識基盤社会等のキイワードが目立っている。こうした社会環境では、競争に勝ち抜くために、企業は、従業員により高次の能力(例えば、コミュニケーション力、課題解決力、新しいことを学び吸収する力、変化する環境に対応する力等)を求めるようになっている。

 教育側と産業界側が抱える問題をみると、両者間で、問題の内容や性質が大きく異なることがわかる。教育側は、大学の大衆化に伴う問題は主として学力に関するものであるのに対し、産業側は、学力とは別種の能力についてより強い問題意識を抱いているようにみえるのだ。

3. 大学に求められる学習成果とは
(1)教育成果VS学習成果
 では、大学にはどのような教育成果が求められているのか。実は、昨今の高等教育政策では、教育成果という言葉は用いられていない。代わりに、学習成果という言葉が用いられるようになっている。
 教育成果と学習成果。たった2文字の差であるが、それが意味するところは想像以上に大きい。教育成果は、教育側の視点に立ったもので、教育サービスを提供した結果に基づき、どのような成果が得られたかを問うものである。
 他方、学習成果は、学生側の視点に立ったもので、卒業時、どのような能力を身に付けているのかが問われる。その能力とは、知識や技術だけでなく、コミュニケーション力や他者との協働の力など、より広範で多様なものをさしている。
 つまり、教育成果よりも広範な能力を指示しているのが学習成果なのである。そして、産業界が求めているのは、教育成果というよりも、被雇用者たる学生の学習成果であることは言うまでもない。

(2)学習成果と4つの能力
 では、学習成果とは具体的にどのようなものを指すのか。ロンドン大学教育大学院教授 R.Barnett氏は、学習成果として身についた能力をコンピテンスと呼び、次のような分類軸を提示した。すなわち、縦軸を学術⇔社会的、横軸を特定的⇔一般的として、座標軸を描き、A,B,C,Dの4つの象限に分けている。
A象限は、座標軸の左上に位置するもので、具体的には文学、歴史、哲学、物理、数学などのリベラル・アーツ(教養教育)の学問分野が該当する。ここでは、教育目標は、学問固有の論理の下で決定され、それを実現するためにカリキュラムが編成されてきた。
 C象限は、座標軸の左下に位置するもので、大学教育を通じて卒業後の特定の職業に不可欠な知識や技術を理解させ、育成してきた能力である。具体的には、医学、看護学、薬学などの、専門職教育がこれに該当する。ここで求められる能力は、職業遂行上不可欠な能力であり、行政府機関などがその能力を定義し、国家試験などを通じて、その能力判定が行われる。大学が専門職教育を行う際も、この能力定義に基づきカリキュラムが作られている。
 B象限は、座標軸の右上に位置する。ここで求められるのは、学問分野に共通のコンピテンスであり、日本の大学では「一般教育」と呼ばれたものが、これにあたる。1991年に、大学設置基準が「大綱化」されるまで、すなわち、大学や学部・学科にかかる設置基準の規制緩和策が施行されるまでは、一般教育は、各大学で共通に必修とされており、人文、社会、自然の3分野で構成されていた。しかし、1991年の「大綱化」以来、多くの大学が教養学部を廃止したことから、一般教育は学部・学科のカリキュラムの中に組み入れられることになった。以来、日本の大学の教養教育は衰退したと言われている。
 また、初年次教育もB象限に含まれる。初年次教育とは、学力や意欲の低下が目立つ学生や、学力上の準備がないままに進学した学生向けに行われるもので、ノートの取り方、図書館の活用方法、論文の書き方が教えられている。
 D象限は、座標軸の右下に位置するもので、汎用的コンピテンスと呼ばれる能力である。実は、この汎用的コンピテンスこそが、世界各国で急がれている能力であり、産業界が最も求めている能力である。この能力は、各国によって名称が異なり、ジェネリック・スキル、キイ・スキル、雇用可能性スキル、転用可能なスキル等と呼ばれている。汎用的コンピテンスが求められるようになった背景には、産業構造と労働市場の変化が著しく、大学専攻と就職後の職種との間のギャップが生じやすくなっていること、そのため、企業は従業員に新しい知識や技術を短期間で効率よく会得してもらわねばならない。また、被雇用者からみると、雇用が流動的になり、転職が以前より頻繁に行われる中、キャリア形成のために新たな知識や技術を迅速に身につけてゆかねばならない。
そのためには、特定の専門知識だけではなく、新たな知識や技術を会得するための情報収集力や分析力、未知の分野から課題やテーマを発見する力、そこから解決策を構築する力、批判的分析力などが必要であると考えられるようになっている。また、組織人、社会の構成員としてやってゆけるように、他者との協働、チームワーク、コミュニケーション力、責任感、意思決定力、あるいは市民性などの能力も汎用的コンピテンスとして必要とされる。

 以上、学習成果に求められる4つのコンピテンスをみたが、これを用いると、日本の大学が何を中心に教育を行ってきたのかがよく見える。日本の大学は、A象限を中心に教育を提供しており、B象限は専門学校や専門職大学院が提供してきた。しかし、C象限は教養学部の解体と共に希薄になっていた。さらに、D象限は、大学教育にとって未知の部分である。
 他方、学習成果として卒業生に求められるのは、A,B,C,D象限の全てであり、特に、産業界から求められているのはD象限の能力なのである。しかも、Dの能力は、学力の低い学生だけでなく、学力の高い学生にとっても、いかに獲得できるかが問題になっている。

4. 大学は汎用的コンピテンスを教えることができるのか
 大学は汎用的コンピテンスを教えることができるのだろうか。そのような視点で、内外の先行研究をレビューしてみたのだが、興味深いことに、汎用的コンピテンスの測定手法や測定結果の分析に関する文献はあるのだが、教え方に関する文献は見出すことができなかった。
 汎用的コンピテンスの中でも、情報収集や分析力、批判的分析力や思考方法は教室の中で教えることができるかもしれない。教員が一方的に講義をするのではなく、学生との議論や対話を交えた双方向型の教授法(アクティブ・ラーニング)に関心が集まっているが、この教授法に期待されているのが、批判的分析力やプレゼンテーション力の向上である。 
しかし、他者との協働や共感、責任感、市民性、公共心などは、座学のみで獲得することは難しいのではないか。むしろ、実体験を通じて体感したことが、うまく昇華されることによって獲得される類のものである。

 この主張を裏付けるような事例がある。アメリカのTeach For America(以下、TFA)というNPOは、一昨年の文系大学生人気就職先No.1となり、日本でも複数のメディアが報道し、話題になった。グーグル社やディズニー社を抜いて一位というのだからただ事ではない。しかも、TFAに就職した者には、ハーバート大学やエール大学などの一流大学出身者が多く、ハーバート大学生の18%がTFAに就職申請をするという。その学生が、「ハーバート大学に進学するよりも、TFAに就職するほうが難しい」と述べているのだから、いかに難関であるかがわかる。
 TFAは教育系のNPOで、米国内の貧困地域の公立学校に、TFAの職員を教員として2年間派遣する活動を行っている。給与は公立学校の教師と同額であり、仮にハーバート大を卒業して一流企業に勤務すれば、その倍額の給与を受け取ることができただろう。では、学生たちは、なぜ、そこまでしてTFAに就職しようとするのか。TFA関係者に尋ねたところ、その答えはシンプルで、「自分自身のバリュー・アップのためです。無論、貧困地域の教育というミッションに共感していることが大前提ですが。」というものだった。荒廃した学校で、家庭環境に問題を抱えた子供たちを相手に、クラスをまとめあげ、彼らの学力を向上させるためには、かなりの創意工夫や忍耐力が求められる。TFAは、そのための訓練のみならず、24時間体制で教師となった職員をサポートするシステムを有している。こうした過程を経て、2年間の教師生活を成就できた職員は、自らのコミュニケーション力や課題解決力が身についたと実感し、自信をつけているのである。
 TFAで2年を過ごした職員の6割は教師となるが、残りの4割は有名企業や法律事務所、官僚や研究者として就職し活躍している。また、企業の評価も高く、採用が決まった後でも、TFAで教師を務めるのであれば、2年間の猶予を与える企業も複数ある。
 ハーバート大やエール大の学生が、卒業後、こぞってTFAへの就職を希望するのは、大学では身に付けることのできない能力をTFAならば身に付けることができることを知っているからではないだろうか。だからこそ、「バリュー・アップ」と答えたのである。そして、彼らのいうバリューとは、まさに、先のD象限にある、汎用的コンピテンスのことである。

5. 大学と外部機関との協働で人材を育む時代
 人材育成が、我が国の将来にとって、根幹を成すものであることに疑いを持つ者はいない。しかし、もはやそれを高等教育機関だけに委ねることに限界があるのではないだろうか。近代の大学のカタチは1810年にドイツのフンボルトによって創設されたものである。以来、大学のカタチは、21世紀の現代まで、同じスタイルで維持されてきた。これだけ長い間、同じカタチを維持できたこと自体、奇跡的であると思うが、既に綻びが見えている。
 社会が、教育成果ではなく、学習成果を求めるようになっている中、人材は大学のキャンパスの中のみで育むのではなく、大学外の様々な組織との協働で育むことが必要ではないか。また、学習成果というからには、その成果に対する責任は、教育側の大学だけではなく、学習側の学生にも求められることになるだろう。

 下村博文文部科学相が提示した奨学金制度は、奨学金を通じて学生にどのような能力を身に付けることを期待しているのだろうか。A象限の教養や基礎的語学力を身に付けることか、それともD象限の汎用的コンピテンスなのだろうか。公的資金を投じる以上、先にあげた大学や産業界とのギャップ問題などの課題認識に対応した、明確かつ具体的な目標設定のもとに施行される必要がある。なぜならば、不明瞭な目的やアウトプットを目的にして、個人に補助金を分配すると、容易にバラマキになってしまう危険性があるからだ。

ページTOPへ▲