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倫理なき評価は意味を失う

2015年02月03日

 STAP細胞問題で俄かに研究の倫理に注目が集まっている。大学評価という商売がら、昨年暮れから倫理について多種多様に資料を集めて読んでいる。まだ整理は必要だが、研究倫理と教育倫理が全く別個に議論され、大学全体としての倫理の議論が意外にも少ないことに驚いている。この点についてある程度まとまってから記したいが、ここでは、私自身が長年、着手してきたNPOなどの公益や社会貢献を目的とする非営利組織と倫理の問題について記したい。

1. なぜ、倫理は敬遠されるのか
 日本では倫理問題を議論しようとすると、堅苦しい、小難しいと敬遠される傾向にある。そのことを最も感じたのは、意外にも公益や社会貢献活動に従事するNPOの活動においてであった。
 私が、非営利組織の活動に着手し始めたのは1990年代の初頭である。間もなく、米国で財団の専門職(プログラム・オフィサー)の研修やファンド・レイジングの研修に参加する機会を得た。3日間ほどの研修だが、興味深いことに最初に学ばされるのは、倫理に関することであった。例えば、芸術系NPOに助成した財団の職員は、当該NPOから舞台チケットをもらってよいのか、犯罪の疑いのある人物から寄付をもらってよいのか、助成先に審査委員が関係する団体を選んでよいのか等々、真剣に議論しているのだ。技術論に関する講義もあるのだが、まずは倫理について学び議論することにたっぷりと時間を費やした後に行われる。「フィランソロピーや公益活動に従事するパッションある者だからこそ、自らを律せよ」と教えられたように思う。

 翻って、日本に戻って、倫理問題について語っても敬遠されがちで、早く向こうで仕入れてきた技術論を教えてほしいといわれることが多かった。「黒い金でも、社会貢献目的に使えば白くなる」と反論する者も少なくなかった。公益目的であれば、ダーティーな金でも浄化することができるという論理だ。また、先の研修の事例のような利益相反問題に遭遇することは少なくない。しかし、それを話題にすると煙ったがられた。
 そうした苦い経験のためか、NPO組織評価基準(エクセレントNPO)を作成する際、資金調達に関する倫理的な要素を含んだ基準を作ったが、そこに”倫理”という言葉を使うことをためらい、控えてしまったのだ。
 しかし、改めて倫理に関する文献を読むと、やはり、堂々とこの問題について議論をすればよかったと思う。活動目的が尊いことを理由に、手段の不適切性に目をつぶり、自らに甘くなっていないだろうか。その甘さは、自らの問題にとどまらず、受益者に影響を与えることも、また第三者によって悪用される可能性さえある。公益的な活動だからこそ、反倫理的な行為に気づきにくくなる側面があるのではないだろうか。

2. 倫理なき評価は単なるチェックリストに埋める作業になる
 倫理問題を取り上げると、「評価や監査を行っているから大丈夫」という返事が返ってくることがある。それはNPOに限らず、大学や営利企業でも耳にすることだ。
 しかし、倫理問題を理解していないと、評価基準に合っているか否かだけに目が奪われ、評価基準の意味することに考えが及ばなくなり、評価基準に外形的にあっていればよいという発想に陥いる。すると評価は単なるチェックリストを埋めるだけの作業になり、実施的に意味のないものになる。それどころか、いくら評価を行ってもモグラ叩きのように評価基準の網の目をくぐって不正行為が発生することになるだろう。また、事業の効果を測定する類の評価もあるが、その際もデータの取り方や分析作業において、研究倫理に通じる誠実さが求められる。そうした配慮に欠けた評価結果は信頼性を失うことになる。倫理は、評価の背景にある考え方や判断の際の分別のようなものを与えてくれるものだ。
 社会貢献や公益目的に従事するからこそ、この問題を議論するべきではないか。世界的に著名な社会企業家を育成するアショカ財団創設者のビル・ドレイトン氏が「社会企業家になるためには、パッションと規律が必要だ」と述べていたが、日本では、まさにそのことを考えるタイミングにある。

 
 

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