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政府の無謬性の葛藤 ~評価的発想を楽しむ研修から~

2014年05月18日

1. フィギュアスケートを題材にした政策評価の教材
 フィギュアスケートの浅田真央の演技の採点結果と真央ちゃんのコメントにインスピレーションを得て、評価論の教材を作っている。4月には、総務省新人キャリア向けの研修で講義をしたが、5月には、内閣官房の中堅官僚30人を対象に講義を行った。内閣官房のスタッフは、各府省からの出向者で構成されており、内閣下という意思決定の中枢で仕事をしている人々だ。
 講義は半ワークショップ形式の60分であるが、質疑応答も加わり80分になった。まず、講義の冒頭で、隣同志で互いに所持している時計の交換が可能かどうかを議論してもらい、その結果を発表してもらう。その交渉行為を、政策評価の用語を用いて分解し、こうした日常的な行為そのものが、業務として着手している政策評価や行政事業レビュー(前政権の事業仕分けを改良したもの)と同種であることを理解してもらう。
 次に、陸上100M、野球、アメフト、フィギュアスケートについて簡単に概説した上で、同じように評価の用語で捉えなおしてもらう。その上で、真央ちゃんのコメントを考える。そして、政策評価にとってどのようなインプリケーションがあるのかを考えてもらうのだ。

2. フィギュアスケート採点をめぐる葛藤
 フィギュアスケートの採点方法をめぐる論争は久しく未だに続いている。本講義でもこの点を説明した。6.0点採点システムで不正が起きたことから、現在の細分化・定量化されたシステムになったこと、話題のトリプルアクセルがどのように減点されるのかなどを説明した。その上で、これだけ細かく採点ルールを定めても完璧な再現性は実現できていないこと、現在のシステムが必ずしも演技全体の美しさや円熟度を表わしているわけではないことについて言及した。
 さらに、こうした認識のもとに採点システムは2年に1度、改定されることになっており、その際の合議のポイントは、選手のチャレンジ精神、観客にとってのわかりやすさなど、ステイクホルダーの視点に基づいていることなどを説明した。つまり、絶対基準、絶対的な審査、完璧な再現性がないことを前提に恒常的に採点システムが改定されているのだ。

3. 行政官の悩み、国民の期待と無謬性
 参加者である行政官にとって、政策評価とフィギュアスケートには、いくつかの親和性や共通点があるように見えたのだろう。いくつもの意見や質問が出された。たとえば、「部分最適が全体最適になるとは限らない」という意見は、施策を構成する事務事業がうまくいっているようにみえても、施策全体からみると芳しくないことがあることを示唆している。
 そして、最も印象深かったのは、フィギュアの観客を国民にたとえた質問だった。その内容を私なりに解釈すると次のようになる。

「フィギュアスケートでは、著名選手であれば、観客のにみらず審判に、”できて当然”という刷り込みがあり「当然、高いパフォーマンスをする」という期待があるはず。それがより厳しい採点となって反映されてしまうのではないか(*実際には著名選手のほうが点が出やすいと言われている)。そして、政府の政策も「できて当たり前、失敗は許されない」という厳しい国民の期待と審判としての目がある。その分、厳しい評価になる。」という内容である。つまり、政府は、常に「無謬性の葛藤」を抱えているということだ。

 この質問がとても率直であったこと、そして、私が適切に答えることができなかったこともあり、講義が終わった後も、私はしばらくその答えを模索した。
 まず、政府が自身で思っているほど国民は無謬性を求めているのだろうかという点だ。それは政府側の過剰な思い込みではという気もする。だが、政府の失敗の影響が第三者に及ぶものであれば冷静に見ることができるかもしれないが、自分に直接影響が及ぶのであればそうはいかないかもしれない。

 転じて、フィギュアスケートの採点システムもファンの批判にさらされている。それでも採点システムの改定について試行錯誤を続けているし、ファンが逃げているわけではない。逆に、叩かれることを理由に試行錯誤を止めたときにこそファンは逃げてゆくのではないか。大事なのは改定の過程を明確な根拠をもってわかりやすく説明してゆくことなのではないのか。
 政府の業績評価も叩かれるからと委縮したら、進化もイノベーションも生まれない。無謬性が求められているという現実を受け入れつつも、試行錯誤の過程を丁寧に説明してゆく努力の余地はまだ大きいのではないか。なぜなら、私がみる限り、表面的に繕おうとして、改善点を明確に記さない政策評価書が少なく、それは、”叩かれること”を意識するあまり、委縮して、自ら進化を止めてしまっているように見えるからだ。
 

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