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是枝裕和監督『10年後』がつきつけた現実

2019年01月07日

明けましておめでとうございます。
この年末・年始は、久しぶりに私事に没頭していが、その一方で、心地の悪さも感じていた。それがどこから来くるのか、もやもやしていたが、『10年後』という是枝裕和監督作品を観て、理由がわかったような気がした。

映画『10年後』トレーラーを観たとき、所謂、反権力を謳った映画はではないかと思ったが、そうした先入観は見事に裏切られた。「それで良いのか」とつきつけられているのは、自分自身であったからだ。90分余りの映画を見終えた時にすぐさま出たのは「辛い」という言葉だった。
なぜならば、救いようのないストーリーだからだ。通常、映画はハッピーエンドとまでいかなくても、何らかの出口に向けた光で終わる。それが全くないのだ。
「10年後」は、5つの短編集で構成されている。高齢化社会と人口管理、DATA社会とプライバシー、AIと人間の自由、原発被害と生存の自由、徴兵制度と命、という現在進行形の社会課題をテーマにしたものだ。特に、高齢者の問題を扱った「プラン75」は辛かった。

「プラン75」とは、75歳以上の貧困層に安楽死を推奨するという施策で、厚労省人口管理局(架空)が担当する。中間層、高所得層の高齢者は、金を使うので社会に貢献するが、貧困層は負担になるばかりというのが理由だ。背景には、日本の社会保障費のひっ迫があることは明白である。人口管理局の若い役人が、高齢者施設を尋ね「プラン75」の説明をし、志願者を募る。そこで流す美しい宣伝ビデオは、優しい介護士たちに囲まれて安楽死するというものだ。
癌の痛みを緩和するパッチのようなものを首に貼ると数分で死ぬことができる。10万円の支度金が支給され、亡くなった後は弔ってくれるという。
認知症の親を抱えた子どもは、複雑な気持ちを抱きながらも、自分たちが生きてゆくためには仕方がないと、親が「プラン75」に申請したことを黙認する。
だが、安楽死の現場はビデオとは程遠い。体育館に並べられた沢山の簡易ベット。布のカーテンの仕切りがあるだけで、周囲からうめき声が聞こえてくる。安楽死といっても、やはり死は恐怖であるのだ。数分後に息絶えると、看護士が、無造作にカーテンを開けてゆく。大量の遺体が連なるように処分場に搬送されていった。

映画はここで終わる。何の結末も明るい出口も、コメントさえもない。つまり、監督らは、ここから先は自分で考えろと、言っているのである。しかも、このストーリーは、10年後の日本で起こりえるかもしれないという、現実味を帯びているから逃げられないのだ。「辛い」映画である。見て見ぬふりをしてこなかったか、難しいからといって問題を先送りしていなかったかと、自問せざるを得なかった。少なくとも、それは私たちが目指していた社会ではない。監督らは、私たちに、現実の辛い問題から逃げずに直視すべしと訴えたかったのであろう。

未だ、答えのない大きな課題を前にあまりにも無力で茫然する。それでも、世論を築いているのは、一人ひとりの個人であると思う。課題から逃げず、公正性を大事に精進ゆきたい。

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