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知性だけではポピュリズムを抑止できない

2013年02月06日

昨年秋に出版した著書『ドラッカー 2020年の日本人への「預言」』集英社のハイライトは、最後の2章のドラッカーがナチズムと闘っていた時の叙述だと思っている。
 ドイツがポピュリズムから全体主義に陥っていった原因は、ヒットラーではなく、国民側にあるというのがドラッカーの主張である。そして「結局は国民が選んだのだ」と述べている。ドラッカーの分析を歴史の断片と重ね合わせながら記したが、今の日本人のと共通することが多く、背筋が寒くなった。

 では、何がポピュリズムや全体主義を抑止してくれるのか。そこで、ナチス研究の第一人者である木村靖二先生に、ナチスの支持層と批判層について尋ねてみた。ナチス支持者は、最初は右翼・ナショナリスト支持層から始まり、その後大学生の間で支持が広がったそうだ。しかも、大学はナチが最初に多数派になった領域だという。その後、農業不況、経済恐慌とともに、農民、中・下層から一般へと支持層を広げていったようだ。しかし、ナチ党は抗議政党色が強く、支持層を長くつなぎとめることはできなかったという。
 では、だれがナチスを批判していたのか。ナチ党が抗議政党で、まっとうな政策を打ち出していなかった事実に鑑みれば、当然、知識層が批判をしていたものと思っていた。しかし、事実はその真逆で、大学人の多数はナチスのシンパと見なされていたという。ユダヤ系の多かったジャーナリズムの中には、反ナチスを唱える者もいたが、少数にとどまったという。つまり、知識人も言論界もナチズムを抑止できなかったのみならず、取り込まれていたということになる。
 この事実に、私は落胆にも似たショックを受けた。ナチスの公約には矛盾と虚偽が満ちていたことをドラッカーは指摘しているが、知識層であれば気づいたはずである。また、知識人から一般に想起されるのは、思想の自由、言論の自由を何よりも愛する人種である。しかし、当時のドイツ知識人の大半は、こうした印象とは真逆の行動をとっていたのだ。あるいは、ドラッカーが指摘したように、ナチズムの矛盾に気づきながらも、見て見ぬふりをした「無関心の罪」を犯していた知識人も少なくないのだろう。
 こうした事実から導かれるのは、知性だけでは、ポピュリズムや全体主義に歯止めをかけることができないということである。では、何が必要なのか。未だ定かではないが、「無関心の罪」の真逆の方向にその答えがあるように思う。自ら社会を担い、責任を持つという当事者意識と勇気ではないだろうか。

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