ブログ

2016年に向けて ~ご挨拶~

2016年01月03日

明けましておめでとうございます。
皆様の健康と幸せをお祈りいたします。

昨年は、私にとって変化の年だったようです。私生活では30年ぶりに母と暮らすことになりました。
また、仕事では、政府、非営利セクターそして企業の3つのセクターでの議論や仕事に着手する好機を得て、今までと異なる“見晴らし”を頂いているように思います。

他方で、大きな課題を実感する年でもありました。2つ挙げたいと思います。
ひとつは、この国の将来像です。昨年暮、言論NPOによる安倍政権3年目の実績評価に参加しました。大学評価をはじめ、政府関係の仕事に着手していることから情報は比較的豊富に得ているつもりでしたが、近いがゆえにゆえなくなっているものがあることを痛感しました。そして、どの視点、角度からも見えてこなかったのが日本の将来像でした。

もうひとつは、非営利組織論、市民社会論の再構築の必要性です。その契機を与えてくれたのは「戦後70年」とドラッカーでした。ドラッカーはユダヤ人として、多感な時期をオーストリアとドイツで過ごしました。氏はナチスを観察・分析し、人類が二度と全体主義に陥らないための3条件のひとつとして市民社会を挙げました。

昨年は、戦後70年。それを契機にドイツや日本の歴史を学びなおす機会に何度かありました。不勉強だと叱られそうですが、ナチスの残虐行為について国民が知っていただけでなく、国民や企業が積極的にナチスを支持し参加し、様々なかたちで利益を得ていたことを知りました。さらに驚いたのは、ナチスは熱心なボランティア推進論を、政権を掌握する前より着々と進めていたことでした。

大失業の不安に苦しむ国民にとって、そこへの参加は自らの役割と位置を取り戻すことのできる大切な機会でした。ナチスのボランティア推進策は、間もなく、日本でも帝大の教員たちの手によって紹介され、文部省や農林省が制度として採り入れてゆきましたが、やがてそれは国家総動員法につながってゆきます。

いずれのボランティアも最初は善意に基づく任意・自発的なものでしたが、やがて義務化・強制化されます。しかし、記録の詳細をみても自発性と強制の間でどこに境界線があるのかがわからないのです。そして、誰もがボランティア活動の公益性を信じていたのでした。この史実は市民社会に危うさや教えています。

また、この史実は、現代の非営利組織論や市民社会論があまりにも楽観的でユートピア的に語られすぎていないかと訴えているようです。他方で、ドラッカーは、ナチスのボランティア推進策や国民の危うさを知りながらも、それでも、市民社会の役割を終身、言い続けました。

なぜなのか。この危うさを克服できる何かがあるのか。未だ答えを模索中ですが、少なくとも従来の非営利組織論を見直し、再構築をする必要があるのではないかと思います。そして、それをこの国の将来像の議論につなげてゆくことも大事な使命だと感じています。

田中弥生

ページTOPへ▲