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裁判の積み重ねが法や常識をかたちづくっている

2015年09月27日

昨日、佐藤修さんが主催するサロンで、弁護士の大川真郎氏のお話を聞いた。
大川氏は、著書『裁判に尊厳を懸ける』(日本評論社)に記されたエピソードを中心に話された。
 お話をされる大川さんの表情は弁護士といよりも、人間の尊厳を守ろうとする、憤りと共感に満ちた一人の人間のそれだった。そのお話しから、依頼人の悔しさ、10年の歳月の中で失った仕事、家庭、友人などその大きさがひしひしと伝わってきた。

 特に、医療、学生運動などの冤罪事案は印象的で、真実を明らかにし無実を証明するために10年以上を費やすものだった。
 医療の事案は、病院の勤務医が、自らの執刀した手術は成功したのに、主治医の述語処理が悪くて患者が亡くなったケースだった。当初、死亡原因を手術ミスであると発表され、その医師はあらゆるメディアから糾弾され、職を失った。また、その背後では、病院と顧問弁護士の保身行為があり、主治医は早々と和解をしてしまった後だったという。
 大川弁護士と医師は、週刊誌へ訴えることから始め、10年かけて最高裁まで闘ったという。大川氏は、この事案が医療過誤問題、チーム医療の難しさ、マスコミのあり方、弁護士のありかた、裁判所の処理のありかた等、多くの問題を孕んでいるという。大川氏は、医師に本を記すことを勧めた。しかし、それでもこの医師の悔しさ、痛みは晴れなかったという。医師は癌で亡くなったが、残されたメモから、弁護士という”代理人の立場”でははかり知ることのできない痛みを知ったという。

 学生運動は、警察、検察という国家権力との闘いであった。無実の罪をきせられた学生だが、検察側の嘘の証拠、嘘の証言をひとつひとつ潰すという、想像もできないような膨大な作業と時間が求められた。その10年間の間、学生は裁判を隠し、就職し、結婚した。しかし、途中で裁判の事実がわかってしまう。裁判所での最後の陳述は、この10年間に至る自らの生活や想いを語ったのものだったという。裁判長は、その陳述を聞き言葉をつまらせそうになっていたという。判決は学生側の勝訴となるものの、白黒をはっきりさせるまでには至らなかった。裁判長は、判決を言い渡した後、「あなた方にとっては十分納得がゆくものではなかったかもしれません。でもこれが司法の限界です」と述べた。

 大川氏は「裁判では個別の事件しか扱えないが、それを積み重ねてゆくことで制度や社会を変えることがある」と述べていた。たしかに、公害などは判例の積み重ねられたことによって、法律や私たちの考え方が変わった事例である。私たちの生活、仕事など身近なところに、こうした事例はあるはずだが、当たり前のことのようにやり過ごして、意識されることは殆どない。そうであるならば、沢山のものを失いながら闘った人、弁護士などの、「多くの尊厳を守るための闘い」の積み重ねの上に、私たちが守られていることを認識すべきだろう。そして、もしその不条理な判断が積み重なることになれば、私たちの私生活、社会生活にも及ぶことになるだろう。もっと司法に近くならねばならないと思った。そして、大川氏の弁護士として人と向き合う姿勢、生き方に深く感銘した。

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