ブログ

サンデー・モーニング特集「揺らぐ世界」への共感と違和感 

2018年01月07日

1月7日のサンデーモーニング(TBS)で、特集「揺らぐ世界 ~この時代の変わり目に~」が放映された。世界中に広がる人々の不安の様々を伝えようとするもので、実直な取り組みに好感を抱いた。だが、途中から違和感を感じざるを得なかった。

  1. 歴史的な観点から「仮説」をつくる野心的な試み

特集は、科学技術の進歩に始まり、北朝鮮問題、環境問題、イスラムとテロ、トランプ現象、そして、ドイツの右傾化、ネオナチ現象、さらにインドでヒトラーが評価されているという映像で始まった。

続いて、コメンテーターが、意見を述べ始める。おそらく、事前打ち合わせで、番組が取り上げたキイワード、すなわち、「分断」「対立」「格差」のいずれかを取り上げて、おのおの意見を述べるように言われていたのだろう。

本題に入る。なぜ、先のキイワードのような現象が生じているのか、その理由を探るという。そこで、映像に登場したのが、富の偏りであり、世界的な富豪8名の名前を挙げ、彼らが世界の50%の総資産にあたる資産を有していると述べる。そして、富の偏りの原因を探るために、歴史を俯瞰すべく、一挙に産業革命の時代まで遡った。そして、産業革命から、富の拡大を狙った植民地争奪戦、第一次大戦、1929年の世界大恐慌、そして第二次世界大戦から、東西冷戦時代、資本主義主導の現代社会へと駆け足で説明していった。そして、資本主義主導の現在、世界大で需要が伸び悩み、大きな格差や富の偏在が生じていると述べた上で、本特集で掲げる仮説とは「世界は行き詰まっている」だった。

その後、コメンテーターの意見や社会学者、哲学者の意見を示し、先の「行き詰まり」は「時代の変わり目」の予兆であると結論づける。最後に、司会者が「これからどうしたら良いのか」と尋ね、各コメンテーターがこれに答えて終わった。

  1. 単線すぎないか ~ヒトラーを現代に重ねることの意味~

不安、行き詰まり感が世界の国々に漂っているという点は、よく伝わってきた。それに同意する視聴者は少なくないだろう。

しかし、仮説のくだりから、ひっかかるものを感じ始めた。ここでは、歴史的な視点から仮説をつくるべく、資本主義にフォーカスして、産業革命まで遡った。冒頭の映像で、ヒトラーの再評価、ネオナチの登場をドイツとインドの映像で取り上げているので、今、ナチスと類似した現象が生じていると言いたかったのだろう。

だが、歴史を用いたこの仮説は、単線すぎる印象を否めなかった。テレビ番組であるから、時間の制限があることは十分理解できる。だが、時代の変わり目を示す出来事は、世界大戦や東西冷戦の終結以外にもあるはずだ。

それにも増して、気になったのは、ヒトラーの時代を現代に重ねて論ずることだった。確かに、ナチス時期と現代が類似するという意見はあちらこちらで聞かれる。だが、歴史的な視点から「仮説」というのであれば、番組で掲げた“時代の変わり目”が、ヒトラーの時代ほどの大きなマグニチュードの変化に匹敵するものなのかが問われることになる。時代は常に変わるので、「変わり目」は頻繁に訪れるが、パラダムを大きく変るような転換期となると、そう訪れるものではない。

そうした視点で、番組を観ていると、フリップの文字が気になってきた。「資本主義と民主主義」が併記されていたからだ。確かに資本主義と民主主義には親和性がある。だが、同じ次元のものなのだろうか。資本主義が社会に及ぶ影響は甚大である。だが、資本主義の上位概念、あるいはそれを包含する社会システムが存在するのではないか。

  1. ナチスの批判的分析

そこで、ナチスの分析のいくつかに着目してみた。ナチスの分析といってもヒトラー個人に焦点を当てたもの、ナチス官僚制に焦点をあてたもの、あるいは当時のドイツ国民に焦点をあてたものなど様々なものがある。そうした中で、社会システムや規範に着目して分析を行ったのは、P.F.ドラッカーである。彼は、1909年にオーストリアでユダヤ系家庭に生まれた。高校卒業後、ドイツに渡り、20代の多感な青年時代をドイツで過ごした。つまり、ドラッカーは、分析者であり、目撃者であり、同時に被害者だった。

 「ナチスの批判的分析」

ドラッカーは、最初の本格的著書『経済人の終焉』(1939年)の中で、ナチス台頭の理由を探っている。大恐慌と30%を超える失業に直面した人々の日常に着目し、社会的排除の問題を指摘した。さらに、政治、経済、宗教、地域社会に着目し考察を重ねる。そして、失業や荒廃の現象面の奥にある原因として、資本主義経済と社会システムの間に大きなギャップが生じていることを指摘している。すなわち、産業社会へと転じて久しいのに、社会の仕組みが商業資本主義時代のままで、人々の発想もその時代のままでとどまっている。そして、このギャップが、失業や貧困などの社会の歪を生み、人々は不安に苛まれた。不安がピークに達すると、人々は安定さえ得られれば、自由という規範を捨てても良いと思うようになり、ヒトラー率いるナチ党を自ら選択していった、というのだ。

 「第二次世界大戦後の “望ましい社会像”の提言」

ドラッカーは、『経済人の終わり』を記しながら、次の書の構想も練った。それは、ナチが破れ、第二次世界大戦が終わることを前提にした次の社会のあり方を描く書である。それは過去のものを踏襲せず、ゼロベースから築く、新しい社会像だった。ギリシャ時代、フランス革命など歴史に言及しているが、参考にしたのは規範、理念にかかる考え方であった。2つの対戦についても記されているが、それは反面教師、つまり二度と全体主義を選択しないための課題として捉えられていた。そして、自由を中心的な規範に据えた、新しい国家の統治のあり方を示した。

  1. 「時代の変わり目」ではなく、システムの大きな転換期

20世紀に入り、ドラッカーは、歴史に学べば、世界は大きな転換期にあり、それは2010年から2020年まで続くと述べている。一見、ざっくりとした論説だが、その背景にはナチスの分析がある。

かなり遠回りをしたが、サンデーモーニングの特集が、世界の行き詰まり感とナチスを重ねたことは、あながち間違いではないのかもしれない。そうであるならば、それは“時代の変わり目”ではなく、社会の大きな転換であり、経済の構造改革のみで対応できるようなものではないだろう。それは、自由と平等などの規範という、より高次の視点から見直す必要があるものではないか。

ページTOPへ▲