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上海で市民社会組織論を講演して

2017年03月05日
  1. 中国での市民社会組織の講演と周囲の懸念

上海の日本領事館で、市民社会組織について講演をする機会を頂いた。日本の研究者を中国に派遣し、中国の関係者との議論や交流を促すという企画の一環である。これまでは中国研究や政治学者などいわゆる王道の研究者が派遣されてきたが、市民社会やNGOやNPOをテーマにしたものは今回が初めてであったという。

私自身は中国について素人で、関わりも少なく、接点といえば、言論NPOの東京-北京フォーラムくらいである。だからこそ「面白い試みではないですか」と二つ返事で外務省からの依頼を快諾した。

しかし、周囲の反応は異なっていた。中国専門家は、中国政府が言論に対してより制限的になっていること、外国NGOに対して規制が施行されたことなどを挙げ、心配してくれた。専門家ではない同僚や知人も、講演のテーマを聞いて「本当に大丈夫?」と尋ねてきた。そこで、上海領事館に相談したのだが、よほど過激なことを言わない限り、大丈夫であるという返答が戻ってきた。東京と上海、このギャップはどこから来るのだろうか。

2. 企業、NPO、研究者との出会いと講演会

上海訪問は3月1日~3日で、短い滞在であったが、時間を惜しんでのスケジュールを組んでもらったおかげで、様々な人々との交流の機会を得た。上海住友商事株式会社でのヒアリングを皮切りに、海洋環境の保全活動を行うNPOの劉代表、農民工を支援するNPOの李代表、復旦大学の陳教授ら国際関係学科の教授と学生ら約50名との交流、復旦大学日本研究センターの呉教授をはじめとした研究者との議論、そして講演会を通じて90名の参加者と交流した。

 

片山総領事、NPO関係者の皆さんと 公邸にて

講演会は3月2日夕方6時半から日本領事館で行われた。大使館の若手職員らがSNSで案内を出したそうだが、直前に申し込みが増え、会場は満席だった。

逐次通訳も入れて70分程の講義、30分の質疑応答の予定であるため、講義は導入的な内容とした。しかし、日本での講義とは異なり、イントロダクションで、江戸時代の町民の暮らしや、明治以降制度化された町内会・自治会について説明した。特に、町内会・自治会については、その役割・機能や行政との関係が、中国の社区と似ている点があることを意識して挿入したものだ。

次いで、NPO法(特定非営利活動促進法)の成立過程と現状の課題を説明した。1990年前後から1998年の法案制定までを3つの期間に区切り、世論、NPO関係者、政治・議会、政府、企業のそれぞれがNPO法制定にどう関与したのかを説明した。ポイントは、阪神・淡路大震災以前、多くの日本人が自分たちにはボランティア精神が無いと思い込んでいたが、震災におけるNGOやボランティアの活躍を目撃して覚醒したこと、そうした動きをみて、当時、自民党幹事長だった加藤紘一氏とNPO関係者が法案策定に動き、それに続くようにメディア、経団連、野党など様々な主体が動いたことを説明した(加藤紘一氏は、親中派政治家として中国では有名だが、NPO法の立役者であったことについては知られていない)。

NPO法制定から20年、現在のNPO活動例として、里親制度を進めるNPO、高齢者施設のアセスメントを行うNPOなどを紹介した上で、全体を俯瞰するものとして分野別NPO数や収入規模の分布などを説明した。これらの現状を踏まえ課題も指摘したが、その理由をドラッカーの非営利組織論を用いながら解説した。

会場からは熱心に質問が出されたが、講演会終了後も列ができるほどだった。NPOの収入構成はどうなっているのか、日本では行政や政府から補助金が出るのか、行政はどのようにNPOを評価・選別しているのか、NPOの広報戦略をどうしたらよいのかなど実践的な質問が目立ったが、合わせて、高齢者ケアへの関心の高さも窺うことができた。

上海高島屋の日本フロアには介護商品が並んでいた

3. 印象的な2つの動向

上海訪問を通じていくつもの刺激を受けたが、特に印象に残った2つを挙げておきたい。

「計画経済体制から資本主義導入へ ~「単位」から「社区」へ~」

今回、面談した中で、比較的年齢が高い層が触れていたのが「単位」の人から、「社区」への変化だった。

社区とは、一定の地理的範囲に住む住民が、自発的に共同し、清掃や娯楽、高齢者のケアなど必要なサービスを提供したり、連絡調整するもので、その役割・機能は日本の町内会や自治会に似ている。1930年代頃からこうした仕組みはあったようだが、2000年に中央政府民生部の指導によって、「社区建設」が促された。その背景には、計画経済体制から資本主義への転換に伴う都市社会の変化が挙げられるという。

計画経済体制下では、人々は「単位の人」だったのだという。つまり、国営企業に所属し、終身そこで働いた。学校、医療などの基本的なサービスはこの企業が提供し、最後は葬式まで面倒をみてくれたという。そのため職場を単位にコミュニティが出来上がり、人々の帰属意識も職場コミュニティによって満たされていたという。つまり、単位とは、職場のことをさし、人々はそこを職・生活の場として帰属していたのである。

しかし、市場経済の導入に伴い、国営企業は効率化され、十分な社会サービスを提供することができなくなってゆく。また、人々も流動的になり、民間企業に職場を移すものも出てきた。こうした構造的な変化に伴い、地域社会も崩れ始めた。この状況を懸念した中央政府は、「社区」という概念を用いてコミュニティの再構築を行おうとしたのである。社区は、居民委員会という住民委員会を中心に運営されており、区役所の出先機関と連携をとっている。しかし、金銭的な補助は少なく、ほとんどが住民の自発的な活動に委ねられている。活動の内容は、前述が典型例だが、地域のニーズや住民の意向によって様々だ。社区を語った人々が「以前のように政府や企業は面倒を見てくれない。自分たちの問題は自分で解決しないといけない時代」と述べていたのが印象的だった。

 

日本研究センターでの議論

「若い層の社会貢献活動」

他方で、若い層からは「社区」についてあまり馴染みがない、自分はどこの「社区」に属しているのか知らないという意見が聞かれた。だが、助け合いに関心がないのではなく、別のかたちで関心を抱いているようだった。

上海住友商事株式会社で紹介されたのは、同社の中国人スタッフが自主的に始めたという「安徽省貧困地域教育支援事業」だった。この地域は中国政府から紹介されたが、プログラムは社員が開発したものであるという。社員が現場に出向き、ニーズを把握して、支援プログラムを作成し、義援金や教材、ロッカーや椅子・机、PCなどを寄贈した。また、社員と生徒が1対1のペアを組んで寄付をするフォスター・ペアレンツの仕組みも導入し、子供たちとの交流を楽しんでいるという。同社では、大学生を対象にした奨学金や冠講座など貢献事業を実施しているが、先のプログラムが中国人スタッフの発案によるという点も興味深い。

農民工を支援するNPOの李代表は行政職員だったが、農民工に関わる仕事をしたことから、この仕事に専念すべくNPOを立ち上げたのだという。著書の「三重社会」の「三重」は、上海市の戸籍を有する者とそうでない者、加えて所得格差を表している。中国では、農村出身者と都市出身者の戸籍は厳格に区分されており、農村出身者が都市に移住しても、都市の戸籍を得ることは困難で、戸籍がなければ都市の社会サービス(医療や教育など)の対象外となる。また、多くが低所得層であり、格差の原因となっている。李代表のNPOは、行政委託というかたちでこの活動を進めているが、ボランティアの力も有益であるという。7000人の上海市内の住民がボランティアとして登録しており、中には、富裕層の親が、子供の教育のため(ぐーたら息子を矯正させたいと)にボランティアをさせているケースもあるという。

中国では8億人のネットユーザーがいるが、ネットによるチャリティ活動もポピュラーになっているようだ。貧困地域の子供たちに1日1個の卵を食べせることを目的にしたチャリティ・ランが話題になっていた。少し前に、米国を中心にアイス・バケツ・チャレンジが流行したが、こうした影響を受けているのかもしれない。中国では、社区のように、顔見知りの範囲での相互扶助が一般的であると耳にしたことがあるのだが、先のようなネットチャリティはそうした範囲を超えた活動であるという点で興味深かった。

講演会の参加者らと

4. 埋まらぬギャップ それでも確信したこと

今回、東京の心配を頭の片隅に残しながら上海に赴いた。だが、翻訳された講義資料には「市民」と「市民社会組織」という言葉が多用され、会話の中でも頻繁に登場していた。

訪中前に感じた上海側と東京側のギャップは、訪中後にさらに広がった感がある。一体、何がこのギャップの原因なのか。過剰反応や誤解に起因するものなのか。それとも、中国社会のどの側面に着目するかの違いなのだろうか。今の私にはそれを判断できる力はない。

だが、昨年、施行された外国NGOの規制事項に注目すると、政治的な行為、労使トラブルに関すること、遺伝子組み換えにかかる行為などが記されている。これらに着手する外国NGOと組むことも制限されている。このことに鑑みれば、中国で長らく活動しているNPOは、言って良いことと、そうでないことを慎重に区分しながら活動を営んでいるものと思われる。今回、私が見聞きしたのは、こうした枠の中に納まるものだったのだろう。

だが、だからといって市民的な活動を否定する理由にはならない。また、上海では、確かに、チャリティや社会貢献への関心が高まっているようにみえた。そして「自分たちの問題は自分たちで解決する」という言葉にたくましさを感じた。

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