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ネクスト・ドラッカー ~没後10年 語られない思想~

2015年05月24日

今年は、ドラッカーの10回忌にあたる。
ドラッカー学会が、ネクスト・ドラッカーと称した大会を5月23日に開催した。ネクスト・ドラッカーとは、ドラッカー没後10年を節目に、次の10年を我々がどう生きるかという問いかけを意味している。

1. 広く、静かに熱く浸透 ~全国のドラッカーファン~
 会場の東大 伊藤国際学術研究センターには、全国からドラッカー学会会員が集まっていた。しかも同じ県内でも、複数の支部があるのだ。それは、各都道府県・各地域の中で、ドラッカーの著書を読み議論する読書会が運営されているからだ。会員は仕事を終え、夕方や休日に、ドラッカーの本を抱えて集まってくる。運営者は全員ボランティアで、ワンコインで集える場所を探し、著書を選定したり、ゲストスピーカーを招へいするなど、会をもりたてている。会員構成は、実に多様で会社員、退職者、経営者、学者、そして獣医、美術館の学芸員、NPO運者などだ。以前は男性会員が多かったが、最近は若い女性の姿も目立っている。

 私も別学会の会長を務めているためか、一目見て、この学会が活発であることがわかった。その源泉は会員ひとりひとりが、どこまで熱心に参加しているかということに尽きると思う。年間スケジュールをみると年に3回、各地でイベントが企画されているが、地元の会員がかなり汗を流さないとできないことだ。羨ましいという気持ちを抱きながら、魅力は何なのかを探ってみた。熱心なドラッカーファンであるという点は最大の強みであるが、そのファンの気持ちを、書籍の選定、議論のための論点の提示、ゲストスピーカーの招へいなど読書会に工夫を凝らし上手に受けとめているようにみえた。
 ドラッカーは、自ら会得した知識をベースに働く人々を知識ワーカーと呼んでいるが、そうした知識ワーカーには、社会とつながるためのコミュニティが必要であると言っていた。勉強会をベースに作られた本学会はそのコミュニティの役割をはたしているようにみえた。

2. 新鮮な「ドラッカーの原点」と書籍販売の課題
 本大会で、「ドラッカー 2020年の日本人への預言」というタイトルで講演をさせて頂いた。メンバーの中にはドラッカーの全著書を制覇している方、文言のひとつひとつを記憶している方もいる。そうした方々の前で話すのだから勇気のいることだった。
 私の講演で次のことを論じた。すなわち、ドラッカーがなぜマネジメント論を研究しようと思ったのか、なぜ、非営利組織や市民社会が大事であると説いたのか、その本当の理由を探るためには、渡米前の若き日のドラッカーに遡る必要があること。それは、ナチス全体主義に苦悩し、筆の力で闘っていた青年ドラッカーであること。その葛藤の果実がナチスを批判的に分析した著書『経済人の終わり』である。その続編として、ナチスが破れ、第二次大戦が終結することを前提に、戦時中に出版されたのが『産業人の未来』であるが、この著作では、人類が二度と専制や全体主義に陥らないための自由社会像が描かれている。そこでは、戦後社会は間違いなく企業社会になることを予言し、企業には、経済的な役割だけではなく、人々に位置と役割を与えるコミュニティの役割を期待したこと。そうした2つの役割を果たす企業の運営方法の具体を探ろうと企業研究を思い立ったこと。それが、氏のマネジメント論の真の契機である。つまり、ドラッカーのマネジメント論は、氏が描いた自由社会論の一部なのだ。
 
 厳しい目を持っているだろう会員の目に、私の講演がどう映ったのか。だが、そんな不安は杞憂だった。「すっと胸に落ちた」「腑に落ちた」という声を多くの会員の方から頂き、懇親会の場では、多くの方が列を作って感想を述べてくれた。
 これだけ熱心なドラッカーファンに、私の話が新鮮に映ったとすれば、読んでいる本の傾向に原因があるのかもしれない。日本では、ドラッカーの著書はマネジメント論を中心に販売されているからだ。おそらくそれが売れ筋だと判断されたからだろう。他方、渡米前の若きドラッカーの著書はやや難解で、書店では政治学や社会学の棚に置かれる類のものだ。その結果、ドラッカーの著作の売られ方にある傾向が生じていたのだと思う。類似の傾向は米国でも見られることだ。しかし、その傾向が真実であるとは限らない。今一度、著者の主張の深層に耳を傾ける必要がないだろうか。

 

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