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研究不正とインテグリティ

2015年04月10日

1. 研究不正とガイドライン
昨今、研究不正問題が話題に上ることが多いが、この問題が関心を集め始めたのは2000年頃である。続出する研究不正に対応すべく、行政府機関、大学や研究機関はガイドラインや規定を設置するようになったが、最も代表的なのが2006年に文部科学省が示したガイドラインである。
 だが、その後も研究不正事件は起こり、2012年頃から大きな不正事件が次々と発覚した。これを受けて、文科省はガイドラインの見直しを開始したが、その最中にSTAP細胞問題が起こった。そして、ようやく改訂版が示されたのは2014年8月だった。
 他方、大学の現場からは、各種のガイドラインが示される度に「負担が増えた」「自由が奪われた」という不満の声が聞こえてくる。不正がみつかると「運が悪かった」「告発者の個人的な恨みを買った」というボヤキさえ聞こえてくるのだ。
 こうした状況をみると、不正対応のガイドラインだけでは問題解決はできないだろうと思うのだ。

2. 研究倫理のルーツ
 先のガイドラインが不正への受動的な対応であるとすれば、より積極的な姿勢を求めるのが研究倫理である。それは、研究者に対して、誠実さ、正直さ、公正さを求めるものだ。この研究倫理のルーツにあたるものがアカデミック・インテグリティ(Academic Integrity、 以下AI)という概念だ。米国の国際アカデミック・インテグリティー・センターは、AIの条件として「正直、信頼、公正、尊重、責任、勇気」を挙げている。また、大学の規約や評価機関の文書を参照すると、AIとは本来、教員、職員、執行役員(理事会)など、大学の構成員すべてに求められるものであると説明されている。

 AIの歴史は、1840年頃まで遡る。その発端となったのが、米国ヴァージニア大学で起こった、ジョン・デイビス教授射撃事件である。原因は教員と学生の間の闘争であり、犯人は学生だった。しかし、教授は自らを撃った学生の名前を明かそうとせず、「名誉ある人間とは、自ら名乗り出る者である」と述べたのだ。デイビス教授の言葉に感銘を受けた後任の教授が、試験の際に、学生に「私は、試験の最中に、いかなる情報源からの助けを得ず、名誉ある人間であることを証明し、誓います」という誓約書に署名を求めたが、これがキャンパス内に広がっていった。後に、この誓約書は、Honor Code(名誉宣言誓約書)と呼ばれ、現在では米国の多くの大学が規約として独自のHonor Codeを作成している。
 AIは、Honor Codeに端を発しているが、前述のように、学生のみならず、すべての構成員に求められる信条として用いられるようになった。
 しかしながら、19世紀に入ると、教員の研究面での役割とその成果物である論文に社会的な関心が高まってゆく。そうなると、研究者としてのインテグリティについては、より細かな規定が必要となり、教育のインテグリティとは分けて扱われるようになっていった。そして、研究については、研究倫理(あるいはリサーチ・インテグリティ)が、教育についてはアカデミック・インテグリティと呼ばれるようになった。

3. 様々な組織、職業人に求められるインテグリティ
 だが、そもそもインテグリティの議論は大学に留まるものではない。医師、看護師、弁護士など専門職に就く者は、各々の専門ごとに定められた倫理規定の順守が求められ、それに反した者は資格をはく奪されることさえある。公務員や国際機関もしかりだ。国連は、その3つの価値として、プロフェッショナリズム、インテグリティ、多様性の尊重を挙げている。
 日本版企業改革法(JSOX)のモデルになった内部統制フレームワークCOSOにもインテグリティが挙げられている。だがインテグリティの考え方は、全く新しいものというわけではないだろう。例えば、住友商事は、社訓の一番目に、インテグリティ(法を順守し、高い倫理規範を有すること)を挙げているが、社是社訓に同様の考え方を記した企業は少なくない。

 このように考えると、インテグリティとは文化や歴史、専門分野を超えて共有される規範的な概念なのだろう。ただし、日本と米国や英国との間で違いがあるとすれば、その受け止め方の温度差だ。米国で「インテグリティがない」と言われることは、「あいつは信用できない」とレッテルを張られるほど不名誉なことであるが、日本ではそこまでの強い感覚はない。研究不正が発覚して「運が悪かった」とこぼす態度の背後には、そうした感覚の希薄さがある。しかし、グローバル社会の中では、こうした希薄な意識ではやってゆけなくなるだろう。

 インテグリティとは、人としてどう生きるかということを問うものなのではないだろうか。翻って研究不正については、ガイドラインの順守だけでは展望が見えてこない。研究者としてのインテグリティ、すなわち、社会の中で、研究者としてどう誠実に誇り高く生きてゆくのかを問い直すところから始める必要がないか。

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