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ハンナ・アーレントと目的合理性の罠

2014年05月03日

久しぶりにハンナ・アーレントの『人間の条件』に目を通している。
「公的な空間における人間の行為は、自由な人間に許された自己実現の方法」であるという。そして、彼女は、公的空間における人間の行為を目的達成の手段と捉えてしまうと大事な視点を破壊してしまう危険性があることを指摘している。つまり、人間が社会のために生きるということは、自己自身をまっとうする目的そのものであり、目的-手段で捉えることはその視点を破壊してしまうということだ。

 この文章を読んで、自分の中に”痛い”思いが湧いてきた。
 評価論、すなわち政策評価、大学評価の根底にあるのは、徹底した目的合理性の発想で、対象を目的と手段の関係でとらえ直すことである。社会的企業やNPOのイノベーションを議論する時、あるいはこれらの組織経営を議論する時にも、その基本的な考え方は目的合理性であり、組織の使命に基づき、自らが捉えた社会課題の解決という「目的」にむけてそれをどこまで達成するのかという問いかけから始まる。
 しかし、そこで活動する人間の心の問題はどうなのか。社会企業やNPOで活動する人々の心も、目的合理性の視点で、組織の目的を達成する手段として、知らず知らずのうちに議論していなかっただろうか。
 ドラッカーは非営利組織は、そこに参加し活動する人々の「市民性」を育む役割を持っていると述べている。しかし、「市民性」を育むことを、組織の目的の達成手段にしてはならない。そんな当たり前のことを見失っていたように思う。

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