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評価ブームの落とし穴

2013年03月15日

 PDCAという言葉は、もはや常識用語になった。経済財政諮問会議が3月8日に示した提案も、府省レベルの政策におけるPDCAの強化だった。昨今、あらゆる分野でPDCAが謳われるようになっている。これは、おのずと評価のための作業が重視されることを意味している。
 私自身、これまで、ODA評価、府省の政策評価、政治の評価(マニフェスト評価)、NPOの事業や組織評価、公益法人評価、そして大学評価などにかかわってきた。比較的幅広く関わってきたほうだと思う。
 一見、まったく異なる分野であるが、共通しているのは、めざすべき目的や基準に対して、どこまで到達しているのか、あるいはいないかを体系的かつ論理的に説明してゆくかという点である。
 また、日本では、「第三者評価」が大変好まれる傾向にあるが、評価の客観性を担保するための手段であると信じられている(第三者による評価が、客観性を担保するというのは幻想に過ぎないと思うのだが)。最近では、客観性に加え、評価の質を向上させるために、評価基準をより精緻化する傾向もみられる。つまり、より論理的に精緻化するために、基準の下位概念として、参照文書やチェックポイントを作り、細分化するのだ。このチェックポイントに基づき、うまく評価されていないと、さらにその下位概念としてチェックポイントが増やすこともある。しかも、こうした傾向は分野は異なれど、共通してみられるものだ。
 だが、こうした精緻化には「落とし穴」がある。細分化が進みすぎて、それを作成した者しか理解できなかったり、全体像がみえなくなってしまったり、挙句の果てに何のために評価しているのか、その目的がよくわからなくなってゆくのである。いわゆる「木を見て森を見ない」いや、「枝ばかり見て森がみえなくなっている」状態である。
 それを作ったものにはわかっても、周囲は複雑すぎてよく理解できないということは往々にして起こりがちである。このような場合、「周囲は評価の素人だから」という一言で終わらされてしまう。また、評価を受ける側にとってみれば、評価基準が乗数的に増えたことでしかなく、負担感はさらに大きくなる。

 20年ほど前、ある組織の評価システムの構築に従事したことがある。論理体系を整え、それを電子化するところまで行った。本人としては自慢の評価システムのつもりだった。そして、それを誰かに評価してもらいたくて、全米評価学会(3000人ほどの評価専門家、研究者が所属する学会)の初代会長であるMichael Patton教授を招聘し、このシステムを見てもらった。賞賛の言葉を期待して、彼の講評を待った。しかし、Patton教授の最初の一言は、デンジャラス(dangerous)だった。
 同氏によれば、米国開発庁が、”完璧なシステム”を作ったことがあるが、数年後には形骸化して使われなくなってしまったのだという。
 私は、なるほど、と思った。だが、その時は、Patton教授の言葉をよく理解できていなかったと思う。形骸化しないために、評価書を記す人々をよく指導して、仮にそれを記さなかったらペナルティーを課せばよい、くらいに捉えていたからである。その通りに実行していれば、おそらく、形骸化はより速く進んでいただろう。

 20年経た現在、Patton教授の言葉を別な意味で捉えている。彼のいう、形骸化とは、思考が止まってしまうことではないか。評価には、体系的、論理的な思考が求められることは確かである。しかし、それを基準やチェクポイントの枠にがちがちとはめようとすると、どこかで思考停止が始まってしまうのだ。
 より効果的な評価を求めるのであれば、基準を細分化するのではなく、その思考力を高めるための支援をすることのほうが適当ではないか。また、評価基準をデザインする際には、評価をする側と受ける側の思考のための余白を残しておくことも重要である。

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